また若松氏は、ハンセン病患者で長島愛生園で生涯を送った近藤宏一さん(1927~2009年)の『闇を光に』を引用した。近藤さんは神谷美恵子が『生きがいについて』を書くときに決定的な影響を与えた人物としても知られている。
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近藤さんはどうしても聖書を読みたいと思ったが、病み崩れた手で読むことはできず、舌で聖書を読んでいる同じ病の人が群馬の施設にいることを知り、聖書を読み始めた。舌で点字を読むと舌が切れ血まみれになる。そうしながら聖書を読んだ。
読めるだろうか
読まねばならない
(中略)
ためらいとむさぼる心が渦をまき
体の中で激しい音を立ててもだえる
点と点が結びついて線となり
線と線は面となり文字を浮かび出す唇に血がにじみでる 舌先がしびれうずいてくる
試練とはこれか― かなしみとはこれか―
だがためらいと感傷とは今こそ許されはしない
この文字、この言葉
この中にははてしない可能性が大きく手を広げ
新しい僕らの明日を約束しているのだ
涙は
そこでこそぬぐわれるであろう
(中略)
ある者は点字聖書の紙面に舌先を触れて、直接神を味わうでしょう。(「点字」 近藤宏一『闇を光に』から)
『イエス伝』を書くとき、聖書を傍らに置きながら書いた。しかし、自分が読んでいる文章と近藤さんが舌で読んだ文章は、全く違うのだろうなと思った。文字上では同じだが、意味は違うということがある。頭ではなく痛みと共にでしか読めてこない、感じられない言葉がある。聖書にはそういう言葉があふれている。読むということはすごいこと。近藤さんは、言葉は食べるものである、そしてわれわれの全身に染みわたるものだということを言っている。
弟子の裏切りと最後の晩餐(マルコ福音書14:26~31)
ペトロは「たとえみながつまずいてもわたしはつまずきません」と言ったが、イエスを3度否認した。弟子たちは全員イエスを置いて逃げ去った。イエスを裏切ったのはユダであるというが、弟子たちは全員裏切った。
「ユダのようになりたくない」とわれわれがたとえ比喩としても思うとき、われわれはとても恐ろしい場所にいる。イエスがユダに語った「人の子を裏切るその人は不幸である。むしろその人は、生まれなかったほうがよかったであろう」(マタイ福音書14:21)という言葉は、とても厳しいことを言ったとしばしば解釈されているが、私はそうは思わない。イエスはユダだけでなく、全員が裏切ることを知っている。
もっともはっきりとした行動に出たユダへのこの言葉は、「なんと重い十字架を、お前は背負わなければならないのだろうか」という最も深い情愛の言葉ではないだろうか。「お前の人生は、お前の生涯は、なんと苦しいだろうか」と。
ユダが近づき接吻したときイエスは、「友よ、しようとしていることに取りかかりなさい」と呼び掛けた。その意味は重大ではないか。ヨハネの福音書15:13では「友のために命を捨てること、これ以上の愛を人は持ちえない。わたしが命じることを行うならあなた方はわたしの友である。もう、わたしはあなた方を僕とは呼ばない」と語っている。「友」がどれほど深い意味で使われているか、読むだけで分かる。しかし、イエスは「友よ、しようとしていることに取りかかりなさい」と語った。
福音書は、われわれの価値観からは到底受け入れられないことを書いてある。だから意味がある。正しいことは、人生の危機において、この矛盾に満ちた世界で何の役にも立たない。矛盾のない言葉など、信用するに値しない。正しいことばかり言っている人には、大きな嘘(うそ)があるのではないだろうか。
イエスの最期と女性たち(マルコ福音書15:33~41)
また、婦人たちが遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、およびサロメがいた。(マルコ福音書15:40)
男の弟子たちは全員イエスを裏切り逃げ去った。その一方、最期までイエスのそばにいたのは女性たちだった。福音書の中で女性たちの持っている意味は甚大だが、それが今日に至ってもなお十分に考えられていないことがキリスト教の大きな宿題ではないだろうか。
男の弟子たちはイエスが死ぬその日まで、自分たちで誰が一番偉いか話し合っていた。最後まで寄り添ったのは女性だった。しかし、イエスに付き従っていた女性たちが何を聞き、何を見たかは福音書には書かれていない。福音書は全て、男たちがイエスをどう見たかの言葉で埋め尽くされている。聖書に書かれていることは、ごく一部にすぎない。今日なお言葉にされていないイエスの生涯はたくさんあるが語られていないということは、頭の片隅に置いてよい。
復活のイエスが出てくるのは女性たちのもとだった。マグダラのマリアは人々に復活を語るが、誰も信じなかった。福音書は生きているときも死んだ後も、「人々がいかにイエスを信じなかったか」という話に満ち満ちている。
なぜか? 一つは当時の女性の位置がとても低かったことにある。女性は人の数として数えられなかった。人々は、弱き者が語っていることを容易に受け入れず、何が語られたのかではなく誰が語っているかばかりを見ていた。真理は誰がいつどんな小さな声で語っても真実のはずだが、力のある者が高みから語ってくるものを人は真実だと思うということを、福音書は戒めている。
二つ目は、女性たちの説明は全く論理的でなく、感情的な話し方をしたに違いないということ。死んだ人間が復活した、というのだから。だから人々は信用するに値しないと思い、聞き捨てたのではないか。
しかし、日常生活でわれわれは、理性ではなく感情でつかみ取るところが大いにあることをよく分かっている。何かを信じるには、感情の窓を開かないとならない。知性だけではだめだ。われわれが何かを信じるとき、どうしても必要なのはむしろ「矛盾」。論理に破綻がないとき、われわれは「知る」ことによって満足するだけだから。信じることに知性の働きも必要だが、それだけでは不十分なのだろう。
マルコ福音書16:14~19
「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罪に定められる」(マルコ福音書16:16)
福音書からは、イエスが洗礼を授けたかは微妙なところがある。弟子たちが授けていたように読める。「信じて洗礼を受ける者」は、キリスト教徒になるかは関係がない。なぜならイエスはキリスト教徒ではない。イエスの後にキリスト教が生まれた。
われわれはすでに、火と聖霊の洗礼を受けているのではないか。「火」とはわれわれの人生に降りかかってくる試練であり、耐えがたい痛みである。「聖霊」は慰めである。それを受けずに生きている人間は1人もいないだろう。イエスの言いたいことは、そういうことではないか。
水俣病の少女と福音書の長血の女
最後に若松氏は、水俣で生き続けている石牟礼道子さんの『苦海浄土』に触れた。
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水俣病は今年「公式認定」60年となった。しかし、訴訟はいまだ続いており、終わってなどいない。
石牟礼道子さんは、水俣病で体の動かなくなった少女、坂本きよ子さんの母と交流があった。それが『苦海浄土』を生んだ決定的なきっかけとなった。
きよ子は手も足もよじれてきて、手足が縄のようによじれて、わが身をしばっておりましたが、見るのも辛うして。
それがあなた、死にました年でしたが、桜の花の散ります頃に、私がちょっと留守しとりましたら、縁側に転げ出て、縁から落ちて地面に這うとりましたですよ。たまがって駆け寄りましたら、かなわん指で、桜の花びらば拾おうとしよりましたです。曲った指で地面ににじりつけて、肘から血ぃ出して、「おかしゃん、はなば」ちゅうて花びらば指さすとですもんね。花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。
何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった一枚の桜の花びらば拾うのが望みでした。それであなたにお願いですが、文(ふみ)ば、チッソの方に書いてくださいませんか。いや、世間の方々に。桜の時期に、花びらば一枚、きよ子のかわりに、拾うてやってくださいませんでしょうか。花の供養に。(石牟礼道子「花の文を―寄る辺なき魂の祈り」から)
きよ子さんの感じていたことは分からない。しかし何か大事なものがあったことが分かる。
言葉を読むということは、こういう人の思いを受け取るということではないか。言葉にならない何かを受け取るということが、読むということの大きな役割ではないだろうか。
この文章を読むと、私など想像することもできない苦しみと嘆きと痛みを背負った人の人生が教えてくれるものがある。そして、自分が頭を働かせれば働かせるほど「お前はどうして小さい世界に逃げ込むのか。お前が分かったように世界を小さくするな」と戒め、言ってくれるような気がする。
今日、ぜひきよ子さんのために桜の花びらを拾ってみてほしい。そうすれば、悲しみの奥に何があるのか、何か分かってくる気がする。福音書で長血をわずらった女がイエスの衣に触れたという話を読んだが、きよ子さんにとって桜の花びらがそういうものだったのではないか。
悲しみはわれわれの人生の中で避けることができない経験である。しかしわれわれと他者、われわれと歴史、そしてわれわれとわれわれ自身を結ぶものなのではないか。
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