トルストイは『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などの長編小説で名を知られるロシアの文豪である。彼は晩年に、真の文芸は人に感化を与え、人生のために何らかの益となるものでなければならないという信念を持つに至った。そしてそれは、単に美や享楽を追求するものでなく、一国民や上流階級の人々だけに通用するものでもなくして、宗教的感情を土台とし、一般大衆にも理解されるものでなければならないと断言したのである。こうした背景から、彼は何編かの民話を書いたが、その中でも『人はなんで生きるか』は、多くの人に感銘を与え、神は愛であることを万人の胸に深く刻み付ける不朽の名作となった。
レフ・トルストイ(1828〜1910)について
ロシアの小説家・思想家。領地の農民の教育事業に取り組む傍ら作家活動。独自のキリスト教的立場(トルストイ主義)を提唱。私有財産や性欲を否定し、悪への無抵抗や反戦を説き、社会・教会・芸術批判を展開し、道徳的権威として世界的に大きな影響力を持った。1910年家出を決行。寒村の駅舎で病死。著作に長編『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』、戯曲『闇の力』、創作民話『イワンのばか』、論文『懺悔』など。(「広辞苑」参照)
あらすじ
貧しい靴屋のセミョーンは、ある農家を間借りして妻子と共に暮らしていた。秋になったとき、少し金もたまったので、農家の人に貸した金を返してもらい、それを足して毛皮を買うために家を出た。しかし、あてにしていた金は返してもらえず、わずかな靴の修理代しかもらえなかった。気落ちして帰る途中、道の四つ角にある聖堂の前を通りかかると、そこに一人の若者が倒れているのが目に入った。関わりたくないので通り過ぎようとしたが、気がとがめて引き返し、その男に自分の上着を着せた上、帽子も靴も与えてとりあえず自分の家に連れていくことにした。その若者は、どこから来たのか、なぜここに倒れていたのか尋ねても答えず、自分は神様から罰せられたのだと言うだけだった。
家に着くと、妻のマトリョーナは夫が見ず知らずの人間を連れてきたことに腹を立て、彼につかみかかる。しかし、セミョーンが「おまえの心には神様はいなさらねえのかい?」と言うと、突然態度が変わった。彼女は食事の支度をすると男に食べさせ、テーブルに片肘をついて見守るうちに、かわいそうになった。するとその時、若者の顔が輝き、彼は微笑したのだった。その翌朝、セミョーンは彼を家に置いてやろうと考え、靴職人としての手ほどきを教えると、ミハイルと名乗る若者はすぐに覚えてしまい、間もなく一人で靴を作れるようになった。
1年後。セミョーンとミハイルが店に座っていると、大富豪がやってきて長靴を注文する。セミョーンが寸法を採る間、ミハイルは目を凝らしてある一角を見つめていたが、突然にっこりと微笑する。それから皮を広げて寸法をもとに裁断し、あっという間に縫い上げたが、驚いたことに、それは長靴ではなくスリッパであった。セミョーンが嘆いていると、大富豪の下男が突然戻ってきて言うには、「旦那は帰る途中馬車の中で急死してしまったから、葬式に使うスリッパを作ってほしい」ということだった。セミョーンはすでに作ってある品物を渡し、代金をもらったのだった。
ミハイルが来て6年目になった。ある日、双子の女の子を連れた裕福な家の婦人が、子どものために靴を作りに来た。寸法を採ろうとしたとき、セミョーンは一人の女の子が不具であることに気付く。するとその婦人は、この子どもたちは両親を亡くしてしまい、母親が死ぬ瞬間に転がって、その体が一人の上に乗って片足をねじ曲げてしまったのだと話す。彼女は子どもたちどちらに対しても愛情を注ぎ、実の子として大切に育てていたのである。その時、マトリョーナはこう言うのだった。「『親はなくとも子は育つ、が、神がなくては生きてはゆけぬ』と言いますからね」と。
そして彼らが帰っていくと、ミハイルは晴れやかな微笑を浮かべていた。その彼の体がまばゆいほどの光に包まれているのを見て、セミョーンとマトリョーナは驚く。
やがてミハイルは、神様が自分を許してくださったので天に帰ることを告げた。彼は天使だった。ある時、2人の女の子を持った母親から魂を抜き取ってくるようにと神様に命じられたが、子どもがどうやって育っていくのかを思うとふびんでそれができなかった。すると神様は「もう一度行って母親から魂を抜き取りなさい。その時、私の3つの言葉の意味が分かるだろう。それが分かったら帰ってきなさい」と言われ、彼を地上に投げ落とされたのだった。
セミョーンから、3度微笑したわけを尋ねられると、ミハイルは語った。1つ目の微笑はマトリョーナが自分を憐(あわ)れんでくれたのが分かったときで、「人の中には愛がある」ということが分かったからだった。2つ目の微笑は、大富豪が自分の命がすぐに失われることを知らずに長靴を注文したときで、「人間に与えられていないものは何であるか」が分かったからであった。そして最後の微笑は2人の孤児を愛情込めて育てている婦人の涙を見たときで、彼女の中に生きた神を見、「人はなんで生きるか」が分かったからであった。
語り終えた天使は、声高らかに神を賛美する歌をうたいつつ、恩寵(おんちょう)の光に包まれて天に帰っていった。
見どころ
「マトリョーナ、おまえの心にゃ、神さまはいなさらねえのかい?!」 マトリョーナは、この言葉を聞くと、もう一度旅人のほうを見た。とたんに、彼女の怒りは消えてしまった。(中略)マトリョーナはテーブルのはしのほうに腰かけ、片手で頬杖をついて、旅人のほうを見ていた。するうちにマトリョーナには、その旅人がかわいそうになってきた、そして彼を愛する気持ちになった。と、急に旅人は元気がよくなり、しかめつらするのをやめて、マトリョーナのほうへ目を上げると、にっこり笑った。(21〜22ページ)
「じゃ、おまえもいいか」と旦那はミハイルに言った。「気をつけて、一年は大丈夫もつような靴をつくるんだぞ」 セミョーンもミハイルのほうを振り返って、見ると――ミハイルは旦那のほうは見ないで、旦那のうしろの一隅にきっと目を据えていた、まるでだれかを見つめてでもいるように。(31ページ)
その時、マトリョーナが口をだした、(中略)――「では、おまえさまはこのお子さんたちのお母さまではおいでなさらないのですか?」「わたしは生みの母ではないんですよ、おかみさん。」(中略)「自分の腹を痛めた子でもないのに、ようまあお可愛(かわい)がりなさいますね」「どうして可愛がらずにいられましょう、わたしはこのふたりを自分のお乳で育てたんですもの。」(39ページ)
女のひとは、一方の手でびっこの子供を自分の胸へ抱きしめ、一方の手で、頬に流れる涙を拭いはじめた。マトリョーナも溜息(ためいき)をついて、言うのだった――「『親はなくとも子はそだつ、が、神がなくては生きてゆけぬ』ということを言いますが、ほんによく言ったものでございますね」(42ページ)
するうちに、天使のからだがあらわれて、彼はすっかり光りに包まれてしまったので、目でまともに彼を見ることはできなくなった。(中略)天使は言った――「わたしは、すべてのひとは自分のことを考える心だけでなく、愛によって生きているのだということを知りました。(中略)わたしが人間であった時に生きてゆくことができたのは、わたしが自分で自分のことを考えたからではなく、通りすがりのひとと、そのおかみさんの心に愛があって、わたしを憐れみ愛してくれたからです。また、ふたりの孤児が生きてゆけたのは、みんなが彼らのことを考えてやったからではなく、他人の女の心に愛があって、彼らを憐れみいつくしんでくれたからです。こうしてすべての人は、彼らが自分で自分のことを考えるからではなく、人々の心に愛があることによって、生きていっているのです。」
(中略)
「わたしがさとりましたのは、神さまは人々が離ればなれに生きてゆくことを望んではいらっしゃらないので、そのひとりひとりにとって何が必要だかということは、お示しになっていませんけれども、みんなが心を合わせて一つになって生きていくことを望んでいらっしゃるので、人間一同にとって、自分のためにも一同のためにも必要なものはなんであるかということを、みんなお示しになっているのだということでした。」
「今こそわたしは、ひとが自分で自分のことを考える心づかいによって生きているように思うのは、それはただ人間がそう思うだけにすぎなくて、じっさいはただ、愛の力だけによって生きているのだということが、わかりました。愛によって生きているものは、神さまの中に生きているもので、つまり神さまは、そのひとの中にいらっしゃるのです。なぜなら、神さまは愛なのですから」(51〜53ページ)
■ レフ・トルストイ著、中村白葉訳『人はなんで生きるか』(岩波書店 / 岩波文庫、1965年)
◇
栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。12年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。