米国は長年にわたり、奴隷制度に政治的解決が得られず苦慮してきた。1852年にストウ夫人の『アンクル・トムス・ケビン』という小説が出版されると、たちまち米国全土に奴隷制度をめぐって賛否両論が渦巻き、南北戦争にまで発展したのだった。
エイブラハム・リンカーン大統領が初めてストウ夫人に会ったとき、「あなたがこの大きな戦争を起こした小さな婦人ですね」と言った話は有名である。奴隷制度が悪いことを米国人ばかりでなく、世界中の人々に教えたのは、この小説をおいて他にないといわれている。
ストウ夫人の生涯
ハリエット・ビーチャー・ストウは1811年6月14日に米国のコネティカット州リッチフィールドで生まれた。父のライマン・ビーチャー博士は高名な神学者で牧師だった。ハリエットは10人きょうだいの6番目だったが、5歳の時、優しかった母を亡くした。2度目の母も、信仰篤(あつ)く愛にあふれた温かな人柄の持ち主で、ハリエットに深い影響を与えたといわれている。13歳の時、姉キャサリンがハートフィールド市で女子の学校を開くと、彼女はその手伝いをし、下級の生徒を教えた。
1831年。一家はオハイオ州シンシチナに移り、父ライマンが郊外の神学校の校長になると、ハリエットは姉キャサリンと共に女学校と小学校を市内につくり、教師として熱心に働いた。
1836年1月。25歳のハリエットは、父の神学校の教授カルヴィン・ストウ博士と結婚し、子どもにも恵まれたが、1848年この地方を襲ったコレラのため末の男の子を亡くす。ちょうどこの頃、米国全土に「逃亡黒奴令」という悪法が出され、かねてから奴隷制度に疑問を持っていたハリエットは強い怒りを覚えた。
弟のヘンリー・ウォード・ビーチャーは、ニューヨークやフィラデルフィアで奴隷解放運動をし、講演やビラ配りをしていたので、ハリエットも教会の婦人たちと一緒に奴隷を救うために募金活動を行った。
そのうち夫のストウ博士が健康を害し、メイン州ブランスウィックのバウドイン大学へ赴任することになったので、ハリエットは夫に先立ってブランスウィックへ行き、新しい家の用意をすることになった。この旅の途中で、彼女は奴隷制度の罪悪を小説の形で世の人に訴えようと考えついた。一説によれば、彼女は奴隷市場の前を通りかかった際、そこで残虐非道な扱いを受けている黒人奴隷を目にし、大きな衝撃を受けたためといわれている。
この小説は1章ができるごとに、ワシントンの『ナショナル・エラ』という雑誌に載せられ、たちまち評判になった。その後、本として出版されると、凄まじい旋風を米国全土に巻き起こし、この波がやがて南北戦争に発展していくのである。やがてリンカーン大統領によって「奴隷解放宣言」が出されたが、この戦争でハリエットも身内を犠牲にするなど生涯癒えぬ傷を負った。その後、彼女は続けて幾つかの優れた作品を書いたが、1896年6月1日、85歳で死去した。
あらすじ
ケンタッキー州の農園主シェルビーの屋敷では、当主がヘイリーという奴隷商人と奴隷売買の契約を交わしていた。売られるのはトムという忠実な召使いと、若い女奴隷イライザの幼い息子ハリーだった。農場の経営が悪化し、家計も逼迫(ひっぱく)しつつあったので、シェルビーは苦渋の決断をしたのだった。屋敷の後ろにはトムじいや(アンクル・トム)の小屋があり、そこは屋敷の者たちの憩いの場であった。クリスチャンのトムは、ここに人々を集めて毎日礼拝を行っていた。
一方、イライザは、主人が奴隷売買の契約をするのを立ち聞きし、息子のハリーを抱くと逃亡する。彼女は裸足でオハイオ川の流氷の上を渡り、逃げ延びることができた。その後、親切なクエーカー教徒の家に保護され、逃亡の末行方が分からなくなっていた夫ジョージとも再会でき、自由を求めてカナダに渡る。結局、トム一人が売られることになり、彼はシェルビー夫妻と屋敷の者に別れを告げ、馬車に乗り込む。この時、馬で後を追ってきたシェルビーの息子ジョージは馬車に飛び移り、トムにいつかきっと買い戻すと約束をし、帰って行った。
その後、ミシシッピー川をニューオーリンズに向かう旅客船の中で、トムはエヴァンゼリン・セント・クレア(愛称エヴァ)という少女と仲良しになる。彼女は子どもらしい無邪気さを備えた半面、深い精神性と霊的資質を備えた不思議な子だった。
そんなある日、船が木材を積み込んで出航する際、ひどく揺れたので、エヴァは海に落ちてしまった。トムはすぐに飛び込んで少女を救う。そしてその後、エヴァの切なる願いで、父親のオーガスチン・セント・クレアはトムを買い取ったのだった。
オーガスチンの屋敷にはいろいろな人がいた。彼の妻マリーは頭痛持ちで、いつも不機嫌で奴隷たちを邪険に扱っている。オーガスチンがエヴァの養育のために呼んだいとこのミス・オフィリアはしっかり者のクリスチャンの婦人で、奴隷に対しては温情的だった。
そんな時、もともと体があまり丈夫でないエヴァが熱病にかかり重体となる。彼女は自分の命があとわずかであることを知り、虐待されて心を閉ざしている孤児トプシーに自分が愛していることを告げ、慰めた。それから、自分の髪を切って使用人たちに分け、自分が皆を愛していることを思い出してほしいと言い残し、父の腕に抱かれて息を引き取る。
オーガスチンは愛する娘に先立たれ、茫然(ぼうぜん)自失の毎日を過ごしていたが、その心の緩みから、ある時居酒屋に立ち寄った際、2人の男のけんかの仲裁に入り、脇腹を刺されて重傷を負った。彼は、最も信頼していたトムに「祈ってくれ」と言い、彼に看取られて世を去った。主人亡き後、屋敷の召使いはバラバラにされ、トムもサイモン・レグリーという新しい主人の元に売られていく。
レグリーは血も涙もない男で、その農場で多くの奴隷を酷使していた。彼はキンボーとサンボーという2人の黒人を手下にし、働きの悪い奴隷に残虐な制裁を加えている。レグリーは、トムがクリスチャンであることを知るや何とか自分たちの仲間にしようと、手はじめに体の弱い女奴隷をムチで打つよう命じる。しかし、トムがきっぱりとそれを拒絶したため、レグリーから手ひどい制裁を受けた。トムは、自分を贖(あがな)ってくださった主イエスを思い、この苦痛に耐えたのだった。
この屋敷には、キャシーとエメリンという2人の女奴隷がいて、キャシーはレグリーの愛人にされていた。2人は迷信深いレグリーが、幽霊が出るといううわさのある屋根裏部屋を怖がっていることを利用し、逃亡したと見せかけ、この部屋に身を隠す。
2人が逃亡したことを知ったレグリーは逆上し、怒りの矛先をトムに向けた。そして、キンボーとサンボーを使って痛めつけるのだが、トムの口からは祈りの言葉しか引き出せなかった。しかし、トムの清らかな赦(ゆる)しの言葉は2人の黒人の胸を打ち、彼らはトムを介抱しつつ、イエス・キリストの話をしてほしいと言う。トムは最後の力を振り絞って主イエスの生涯と十字架の死による救い、そして彼が今も生きておられることを語った。すると、彼らは泣き出し、やがてクリスチャンとなったのだった。
そこへはるばるケンタッキー州からジョージが彼を買い戻すためにやってきたが、すべては遅すぎた。トムは神々しい表情で自分が勝利したこと、すべては愛によらなければ解決しないことを告げ、昔の若主人の胸に抱かれて天国に凱旋したのだった。
ジョージはトムの墓の前で、将来きっと奴隷のない世界をつくることを誓うのだった。
見どころ
イライザは、足も地につかないように、一気に水のふちまできました。すぐうしろへ、三人がかけてきます。死にものぐるいになった人間にだけ神さまがおさずけになるふしぎな力に助けられて、一声叫ぶと、イライザは、岸からどうどうと流れている川水の上を、ひととびに、氷のいかだの上へとびうつりました。(7 子をつれて、63~64ページ)
「だれも黒んぼうが好きになれる人はいないんです、だから、黒んぼうはなんにもできません! あたいはそれだっていいんです。」と、トプシーは言って、口笛を吹きだしました。「ねえ、トプシー! かわいそうな子、あたしはあなたが好きよ!」と、エヴァは急にたまらなくなって、やせ細った手をトプシーの肩にかけながら叫びました。「あたしはあなたが好きよ、だって、あなたには、おとうさんもおかあさんも、なかのいい人も、みんないないから。そして、貧乏で、しかられてばかりいる子どもだから!(中略)あたしはからだがとてもわるいの、トプシー。だから、そう長く生きていないでしょうと思うのよ。(中略)あたしのために、いい子になろうと思ってちょうだい。あたしがあなたといっしょにいられるのは、もうあとすこしばかりなのよ。」 黒人の子どものまるいするどい目が、涙でいっぱいでした。大きな光る涙の露が、一粒ずつ、ほおをつたわって、ゆっくりと、白い小さな手の上に、ぽとり、ぽとり、と落ちています。ああ、そのときでした。ほんとうに人を信じる、神のような愛の光線が、この異教の子どものたましいの暗やみにさしこんだのは!(26 黒い天使、247ページ)
「ああ、お嬢さま! エヴァお嬢さま! ああ、あたいも死にたい――死んでしまいたい!」 つきさすようなはげしさで、泣き叫ぶのはトプシーでした。(中略)「エヴァお嬢さまは、あたいを愛してるっておっしゃったんです。」とトプシーは言いました――「ほんとうです! ああ悲しい! 悲しいわ! もうだれもいなくなっちゃった――だれも!」(中略)ミス・オフィリアは、やさしく、けれどもしっかりと、トプシーを引き起こして、部屋の外へつれだしました。(中略)「トプシー、おまえ、かわいそうにね。(中略)やけを起こさないでね。あたしがあなたを愛してあげられるのよ――とても、あのかわいいエヴァのようにはできないけれど、あたしも、あの子からキリストの愛というものを、教えられたような気がするのよ。おまえを愛してあげることが、あたしにもできそうよ。いいえ、きっと愛しますよ。おまえがいいクリスチャンの娘になれるように、あたしがてつだってあげますよ。」(28 トムじいやの祈り、260~261ページ)
「おい、トム!」と、キンボーが言いました。「おれたち、おまえに、えれえ悪いことしちまったな!」「わし――心の底から、おまえたちをゆるすだ!」 息もたえだえにトムは言いました。「おお、トム、教えてくれ、イエスさまって、だれだ?」 サンボーが言いました。「今晩、おまえのそばに立ってたイエスさまって人よう! どんな人だ?」 このことばは、たえようとするいのちの火をかきおこしました。トムは、あの偉大なおかたについて力強いことばで二つ三つのことをのべました。(中略)ふたりは泣きました――野獣のような男が、ふたりとも泣きました。「なぜこの話を、もっと早く聞かなかったかなあ」と、サンボーが言いました。「だが、この話はほんとうだ!――おらあ、そう思わずにゃいられねえ! 主イエスさま、わしらにおなさけをくだせえまし!」「おお、おまえたち!」と、トムが言いました。「おまえたちを、キリストさまのおそばへ、つれて行ってやれるなら、今までの苦しみは、みんながまんするだぞ! おお神さま! このふたりのたましいを、どうぞ、わしにくだせえまし、お祈りいたしますだ!」(39 殉教者、344~345ページ)
「ああ、ジョージぼっちゃま、おそうごぜえました。天国のほうが、ケンタッキーよりようごぜえます。」「おお、死なないで! ぼくも死んでしまいそうだ! おまえが、どんなに苦しんだかを思うと、ぼくは胸がはりさけそうだ!(中略)かわいそうに、かわいそうに!」「かわいそうにとおっしゃってはいけませんです!」 トムが、おごそかに言いました。「かわいそうな男でごぜえましたが、もうそれはすぎてしまいましただ。今、トムは、天国の門まできておりますだ。(中略)トムは、勝利をえましただぞ!(中略)ぼっちゃまにはおわかりにならねえだ! わしが、みんなを愛していることを! だれでも、どこにいても、みんな愛しますだ。――愛よりほかにごぜえません! おおジョージぼっちゃま、キリストを信じるということは、なんというすばらしいこと・・・」そこまで言ったとき、若主人にあえたうれしさで、死にかけた男に急にふきこまれた力が、おとろえました。(中略)すると、別の世界が近づいたことをしらせる、あのふしぎな、けだかい表情が、顔にあらわれました。にっこりと笑って、トムはねむりにおちました。(40 若主人、348~349ページ)
■ ストウ夫人著『アンクル・トムス・ケビン』(田中西二郎訳、『世界少年少女文学全集』第7巻・アメリカ編Ⅰ、東京創元社)
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。12年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。