1月20日、3カ月近くに及んだ米大統領選挙に決着がつき、ついにバイデン新大統領が誕生する運びとなった。彼の就任によって、米国史上、1961年に就任したジョン・F・ケネディ大統領以来、2人目のカトリック教徒の大統領誕生ということになる。また78歳での大統領就任は史上最高齢ということだ。副大統領のカマラ・ハリス氏に至っては「初の女性」「初のアフリカ系」「初のアジア系」で、3つの「初」が付く米副大統領の誕生となった。
今回の選挙では、昨年の年初来続いているパンデミックの影響から、当初から問題視されていた郵送投票が採用されたのだが、これが前例がないほどの大規模な不正行為の温床となってしまった。不正の有無については異論もあるだろうが、閾値(しきいち)を大きく上回る投票率や、有権者数を上回る投票数など、うそをつけない数字上の事実があることは確かだ。これについては「司法は不正があったとは認めていない」との反論もあるかもしれないが、正確に言うなら「司法は“不正があった”とも“不正がなかった”とも認定していない」ということだ。
現にトランプ陣営が起こした50以上の訴訟のほとんどが、“審理拒否”および“棄却”で、事実検証の審理プロセス自体に至っていないのだ。
どうやら連邦最高裁以下、米国司法は選挙結果を覆すような重大な判断を司法の手で下すのを避けたかったのだろう。司法はその判断を拒んだ代わりに、決着の場を民意の裏付けのある立法府と行政府に委ねたわけである。だから、司法は決して「不正がなかった」と判断したのではなく「不正が選挙を覆す規模なのかどうか」の判断を避けたのだ。
そういうわけで、決着の舞台は政治の場に委ねられた。それが選挙人票を開票する1月6日の両院総会だった。トランプ支持者らの期待は、開票する副大統領のマイク・ペンス氏の判断に集まった。というのも、一部の憲法学者が、副大統領には疑惑州の開票を拒否する憲法上の権限があると唱えたからだ。
悩み抜いたであろうペンス副大統領の回答は「米国憲法は、副大統領にそのような権限を与えていない」だった。彼の判断は、良くも悪くも原理原則に忠実であろうとする“根本主義者(ファンダメンタリスト)的”なものだった。彼は選挙に不正があったことは重々承知していたが、利己と私情を離れ、憲法が意図する原意に忠実であろうと求めたのだ。このようにしてペンス副大統領は、第46代米国大統領の座を自陣営の手中に収めることを拒み、4年前のあの日、神の御名を呼ばわってなされた宣誓の誓いを果たしたのだ。
米国大統領および副大統領は、合衆国憲法第2条第1節8項に基づき、1月20日の就任式において「私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓う」と宣誓する。宣誓の締めくくりには、慣例的に「神よ、そのように私を助け給え(So help me God)」が付け加えられる。しかし、新生の信者であるペンス氏にとってこの呼び掛けは、軽々しい儀礼的慣用句などと到底呼べるようなものではない。“So help me God” 4年前のあの日、彼は自らの創り主に、魂の奥底から真摯(しんし)かつ厳かに呼ばわったことだろう。どうして彼自らが、この誓いに背を向けることなどできるだろうか。神をこよなく愛する聖徒なら、彼がなぜこのような判断をしたのか痛いほど理解できるはずだ。
そのようにペンス副大統領は、彼なりの真摯な結論に至り決断したのだったが、事態を急転させた大きな要因は、ペンス氏の決断の結果というよりも、一部の急進的なトランプ支持者らによる暴走だろう。過激な支持者らが議会に乱入し、結果的に5人の死亡者まで出してしまったのだ。これを機に、議会において公正に選挙結果を見直そうとする試みは敢えなく消沈し、反トランプ派が勢いづいて一気に畳み掛ける流れが加速した。議会乱入については、デモ隊を誘導するDC警察やBLMなど、反トランプ派の誘導と策略があったとささやかれているが、仮にそうであったとしても連邦議会に押し入るなどという不法行為を正当化する言い訳には到底なり得ない。これが引き金となり、不正選挙を正当に検証し見直しを求める議員らの中にも訴えを取り下げる者が相次ぎ、トランプ派の最後の試みは霧消してしまったのだ。この事件の背後に、反トランプ側の策謀があったのなら、見事にはめられてしまったと言うほかない。
議会乱入事件とは別にして、非常に危惧すべき言論の自由の危機が、あらためて浮き彫りになったことを付け加えたい。この事象は、選挙期間中も繰り返されているのだが、回を追うごとにエスカレートしているように見える。マスコミによる印象操作、下院議長ペロシ氏が提起した2度目の弾劾、ビックテック(Google、Apple、Facebook、Twitter、Amazon)が結託しているかのような、保守派に対する執拗な言論弾圧だ。
今回の議会乱入事件を受けてマスコミは一斉に、トランプ大統領が暴徒を誘導したかのようなあからさまな印象操作を大合唱で報じた。トランプ大統領が「法と秩序」を何度も呼び掛けたことはあったが、それを踏みつけ、力に訴えるように呼び掛けたり先導したことは一度もない。1月6日の大規模デモ以前にも、トランプ支持者らが数度にわたってワシントンDCでの大規模デモ活動を敢行したが、彼らが力に訴えて現状を変更しようとしたことはこれまでなかったのだ。彼らは総じて、トランプ大統領が呼び掛けたように愛国的かつ平和的な、法と秩序を守るデモ隊だった。
ところが大手マスコミは「今回の騒動の首謀者はトランプだ」と言わんばかりの横並びの大連呼を繰り返し、経済誌大手のフォーブスは、マクナニー報道官を採用する企業を「危険な企業と位置付ける」と圧力をかけ、選挙不正を追求したテッド・クルーズ議員やポール・ゴーサ議員らには、民主党議員らから議員辞職要求が出された。このように不当に不利な状況に置かれたトランプ支持者は決して少なくなかった。
Twitter はトランプ大統領や支援チーム、スタッフ、保守論客、そして支援者らのアカウントを大量に永久凍結した。Facebook や Youtube は、20日までトランプ大統領の投稿を停止する始末だった。そのような難を逃れるためにトランプ大統領を支持する保守派らが利用し始めた代替SNSが、検閲のない「Parler」だったのだが、Apple と Google は、同社アプリ提供サービスから「Parler」を即刻排除した。また「Parler」にサーバーを提供している Amazon は、同社に対するサーバー提供を突然打ち切る暴挙にも出た。ビッグテックのこの暴走に対しては、ドイツやフランスの政府および首相など西側諸国からも懸念の声が次々に寄せられた。
このように1月6日以降、トランプ大統領が「魔女狩り」と呼ぶほどの、広範囲に及ぶトランプ側の人々に対する常軌を逸した追い討ちと言論弾圧が反対者の手によって仕掛けられたのだ。
今回の大統領選挙を通して「ディープ・ステート」という言葉が、もはや眉唾ものの陰謀論では片付けられない現実味のある連帯であることが如実になったのではないだろうか。ビックテックの提供するサービスは、今では我々の生活に欠かすことのできないインフラの一つとなっている。恐ろしいことに、我々のほとんどが、既にそのシステムに内包されているのだ。
彼らはもはや中立なプラットフォームではなく、その気になれば政権を建ても倒しもできる主要なプレーヤーであることが確かめられたのである(今後終末的な様相は、よりいっそう色濃くなるものと予測されるが、長くなるのでそれについて述べることはやめておく)。
今回の米国大統領選挙は、決して“公正かつ透明性のある民主選挙”などと呼べる代物ではなかった。トランプ大統領は、公正な民主選挙において敗れたのではなく、苛烈な政治闘争において敗れたのだ。彼と彼のチームは、ほぼ全方位からの集中砲火を受けながらも、認められた合法的な手段と与えられた時間内で、精いっぱい戦い抜いた。一体誰が彼らを「負け犬」だとか「身勝手」だとか呼ばわることができるだろう。
むしろトランプ大統領が務めた4年間に対しては、最高の賛辞と感謝の言葉が贈られるべきではないか。退任を直前に控えた大統領の最後の演説には、誰かに対する恨み事も後悔も一切なく、走るべき行程を走り抜いた勝利者の声として響いた。
いずれにしても、我々のようなトランプ大統領の再選を支持していたキリスト信者にとって、バイデン新大統領の誕生は、諸手を挙げて手離しに祝福できることではないだろう。しかしこの結果は、主権者なる我らの神を驚かせもしないし、この方の力量不足でもない。アーメン。そう、にもかかわらず、我らの神は完全に掌握し支配しておられるのだ。私たちが好む好まざるにかかわらず、いかなる地上の権威も神の許しなしには存在し得ないことを私たちは知っている。
それでは、決着がついた今、我々キリスト者が取り得る最善とはいったい何であろうか。我々には聖書が命じている以外の選択肢は許されていない。すなわち、バイデン新大統領が有するのは、天の摂理的な権威であることを認め、この権威がキリストの律法に抵触しない限りにおいて、我々はこれに従い、敬意をもって新大統領のために祈るべきなのだ。(ロマ13:1、1テモテ2:1〜3、1ペテロ2:13〜15)
自由と民主主義、聖書的価値観の擁護者であり、これまでそれを牽引し続けてきた超大国米国と、その国の新しい指導者が、引き続きこの大役の任を果たすように、心を尽くして祈ろうではないか。