その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。・・・娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」・・・イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」・・・「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。・・・小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」・・・イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。(マタイ15:21~28)
コロナの感染者が増加傾向にあります。当然気を付けるべきところは気を付けながら、でも心を病んだり、萎縮したりしないように。私たちは愛され守られて私たちの人生は祝福で満ちていることを忘れないで前進しましょう。「私には足りないところがいっぱいあっても、クリスチャンとしてイエスを慕い求めることにおいては、一生懸命です。自分の信仰以上にイエスは応えてくださっています」と感謝できる者でありたいと思います。
今日開いた聖書箇所は、イエスがツロとシドンの地方に行かれたときに異邦人の女性が、悪霊にとりつかれた娘の解放を求めてイエスの所にやってくるところから始まります。この地方は異邦人しかいない場所でしたが、イエスに癒やしを求めて人々が殺到します。異邦人に対して、イエスはそっけない対応をされました。けれどイエスとこの女性とのやりとりの結果、イエスは娘を癒やしてくださいました。私たちはこの女性の3つの言葉に注目しながら、イエスの恵みを求めるときに必要な態度を求め、確認していきましょう。
1. イエスに素直に求める
私たちは、難しいことは考えずに、イエスに素直に求めましょう。神の恵みを受け損なう理由の一つは、クリスチャンであると言いながらイエスに求めない人が多い点にあります。イエスを信じる信仰が道徳のようになってしまい、イエスに本当に困っていることをお願いすることを忘れてしまわないようにしましょう。私たちは、どんな問題でも、あらゆる悩みをイエスのもとに持っていき、解決を求めましょう。
2. イエスに明確に願い求める
日本人特有の、遠慮して何も言わないのではなく、イエスのもとに来たなら、その臨在を求めるだけでなく、自分が何を求めているのか、はっきりと具体的に、自分の言葉でイエスに願い求めましょう。あなた以上にあなたの悩みを説明できる人はいないのですから!
3. イエスに積極的に求め続ける
当時の「小犬」という言葉は、今なら絶対に許されない差別的発言でしょう。でもこの時彼女は「小犬で結構・・・」と答え、イエスは彼女の信仰を褒め、彼女は恵みを頂きました。私たちは小さな困難でつまずき、ひねくれたり、すねたりするような思いを神の臨在の中や教会で持つことのないようにしましょう。そうではなくて、私たちはどんなことがあっても「私は前向きにイエスの恵みを求めます!」とさらに突っ込んで積極的に求めたいと思います。
この箇所と同じ場面がマルコの福音書にもあり、そこでは、女性が「小犬でも・・・」と言ったとき、イエスは「そうまで言うのですか」と答えています。つまり、「あなたの信仰はりっぱ」という信仰は、「そうまで言うのか」という信仰なのです。不平不満をあの手この手で言うのでなく、「私は絶対恵まれ、祝福されるはずだ」と、あの手この手でイエスの前で訴えましょう! 高尚でなくても、イエスが認めてくださるような信仰を持ち、主に喜ばれる信仰を働かせましょう。