この数カ月、新型コロナウイルスの感染拡大を伝えるニュースがあらゆるメディアを通して流され続けました。中でも、感染者数、死亡者数の増加をあたかも感染拡大の根拠とするような伝え方が目立ったように思います。
使われたデータは客観的なものですが、自粛ムードをあおろうとする伝える側の意図を反映し、私たちの日々の生活の中に、「死」に至る危険が身近に迫っているような緊迫感が伝わりました。
結局、今回のウイルスによる感染者数、死亡者数は、他の感染症(インフルエンザなど)よりはるかに少なく、今後、特別なことが起こらない限り、この騒ぎは収束するでしょう。
しかし、恐怖心がまん延したことにより、経済活動の復帰に時間がかかる他、目に見えない心の被害は、計り知れないものがあるように感じています。
過度の恐怖心は、本来人が避けて通れない「死」を遠ざけ、正しく「死」を受け入れることを拒む体質を育みます。生きている限り、人は「死」に向かって時を刻んでいますから、その現実から目を背けると、生きることが苦しくなっていきます。
毎日約4千人が亡くなる日本社会
今回の新型コロナウイルスによる日本の死亡者は、927人(6月15日現在)ですので、平均すると1日当たり7~8人の方が犠牲になりました。大切な命が失われたわけですから、「死」を悼み、これ以上の被害が及ばないよう警戒することは大切です。
しかし一方で、日本社会では毎日4千人近い方が亡くなり、その中の1割が同じような風邪の症状から肺炎で亡くなっている現実があります。新型コロナの犠牲者(1日当たり7~8人)よりはるかに多い人数です。
東日本大震災の死者は、行方不明者を含めて2万人弱ですから、わずか5日間で震災の死者とほぼ同じ人数になり、年間140万人近い方が継続して命を落としています。
私たちは、生きている限り、このようなたくさんの「死」に囲まれているのです。現代の日本社会にとって「死」を受け入れ、「死」に寄り添うことは、人生そのものを受け入れ、幸いな命を大切に生きる秘訣とも言えるでしょう。
日本社会には、伝統的に「死」を忌み嫌う習慣があり、「死」に向き合うことを苦手としている人が多いように思います。新型コロナの騒動がまん延させた恐怖心が、このような日本人をさらに「死」から遠ざけた可能性を懸念しています。
祝福に満ちた「死」に寄り添う
昨年の春、ある男性からお葬式の電話相談が入りました。相談はご本人の葬儀についてでした。電話の中で、ご自身の病状と、余命が長くないことを簡潔にお伝えくださり、葬儀の段取りをしたいとのことでしたので、早速ご自宅を訪問しました。
このような訪問の場合、相手の方が「死」をどのように受け入れておられるかによって、対応の姿勢は随分と変わります。どのような場合でも、実際に行えることは「傾聴」だけですが、「死」を受け入れず不安の中におられるなら、不安を背負ってくださる神様に祈りつつ、慎重に寄り添う必要があります。
しかし、その際訪問した男性は、お会いした時から「死」と向き合い、受け入れておられる様子がはっきりと伝わってきました。もちろん不安はあったと思いますが、それに勝る祝福の大きさが彼の言葉から確認できました。
私の訪問の内容は、その祝福に共にあずかり、感謝、喜び、希望を分かち合うことになりました。数カ月続いた毎週の訪問は、まるで天国の前味を知るようなひとときだったように思います。もちろん、男性は大きな祝福に包まれて天国に凱旋して逝かれました。
残念ながら、日本でこのような幸いな「死」を迎える方はそれほど多いわけではありません。しかし、神様に心を開き、与えられた人生に感謝して「死」に正しく向き合うなら、「死」は祝福に満ちたものとなり、永遠の天国への入り口になるのです。
私は、多くの日本人がこのような「死」を迎える時代が来ることを切に願っています。新型コロナによってまん延した恐怖心が、そのようなエンディングを止めることがないよう心から祈りたいと思います。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞(の)み込まれた。」(コリント人への手紙第一15章54節)
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