スピリチュアルペインを軽減させる「傾聴」の働きを展開する「善き隣人バンク」が始まりました。発足に当たり、当面の資金援助をお願いするクラウドファンディングは、コロナ禍の中にありながら、多くの皆様のご支援をいただき、無事に目標を達成することができました。この場をお借りし、あらためて御礼申し上げます。クラウドファンディングプロジェクトページはこちら。
小さな出発ですが、人々の心の痛みに寄り添い、祝福を届ける働きを、粘り強く全国に展開したいと願っています。今後ともよろしくお願いします。
「善きサマリヤ人のたとえ話」
「善き隣人バンク」は、聖書の「善きサマリヤ人のたとえ話」に示されるサマリヤ人をモデルとしています。以下に聖書箇所を示します。
ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」(ルカの福音書10章30~35節)
ここで登場する半殺しにされた人はユダヤ人です。そして、その場に通りかかった祭司とレビ人は、ユダヤ人の指導者ですから、当然、ひどい目に遭ったユダヤ人を助けるべき存在だったわけです。
残念なことに、この祭司とレビ人は、彼を助けることなく通り過ぎて行ってしまいます。もちろん、旧約聖書の律法に従い、手厚く助けるべきことは承知していたはずです。
しかし、エリコに下る道は大変危険だったため、自分の身を守るのに精いっぱいだったこと、さらに死体(死んだように見えていた)に触れて穢れることを恐れたため、助けることができませんでした。
ここで、このたとえ話は、ほとんどあり得ない展開に入ります。次に通りかかったサマリヤ人(当時、ユダヤ人からは敵対視されていた)が、彼を助けることをちゅうちょなく選択するのです。そして、その愛に満ちた手厚い行為こそ、「善き隣人」にふさわしいものとされました。
「善き隣人バンク」の働きへの画策
現代の日本社会では、強盗に襲われ、半殺しにされる人は滅多にいません。しかし、この世の荒波にもまれ、生きる力を失いかけている人は大勢います。私たちは、そのような人の「善き隣人」になりたいと願ってきました。
神様は求める者に、恐れ、偏見、差別などを乗り越える力を与えてくださいます。人の力では到底成し得ないことですが、神様に寄り頼めば、善きサマリヤ人のように、不安を乗り越え、ちゅうちょなく寄り添う「善き隣人」になれるはずです。
しかし、もし私たちが「善き隣人」になる道を画策するなら、途端に、能力がない!時間がない!経済力がない!体力がない!仲間がいない!とさまざまな不安ばかりがよぎってきます。神様の御旨にかなう行いは、人の知恵や努力で成し得るものではないからです。
神様の備える「隣人愛」だけが不安を乗り越える源
結局のところ、イエス・キリストから注がれるあふれるばかりの「隣人愛」に背中を押されるように、私たちは新しい出発をすることになりました。不安材料はそのまま存在していますが、私たちの出発を止めることにはなりませんでした。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。(1ヨハネ4章18節)
そして、神様はその他の必要にも応えてくださいます。「善き隣人バンク」の中には、この働きに必要な「能力」「時間」「経済力」「体力」「仲間」が既に徐々に集められ、私たちの熱い思いを支えています。
それらは、私たちが神様の御旨に従う度に、「隣人愛」に添えて与えられるものです。「善き隣人バンク」の歩みには、一切の必要を満たして余りある祝福が準備されることになるのでしょう。
この働きは、いまだ始まったばかりですが、主の愛に満たされた多くの賛同者と共に、全国に祝福を持ち運びたいと願っています。「善き隣人バンク」の働きに関心のある方はぜひご連絡ください(電話:078・262・1336、ブレス・ユア・ホーム広田まで)。
◇