前回に引き続き、品川入管に収容された非欧米諸国出身のクリスチャンの訪問ルポをお届けする。
オケレケ・スティーブン兄弟
一人目の面会が終わり、1階に戻った。すでに面会申請のできる受付時間は過ぎていたので昼食をとって午後申請することにした。この面会の活動で一日を過ごすさまざまなボランティア団体の人や弁護士らは近所の食堂で昼食を食べ、後半戦に備えていた。昼食が終わり、受付でもう一枚面会申請用紙に記入して提出した。2人目に面会申請したのはナイジェリア出身のオケレケ・チディ・スティーブン兄弟だった。スティーブンという名前は使徒の働き(使徒言行録)6、7章に出てくる執事ステパノの英名なので、おそらくクリスチャンではないかと予想したからだ。
面会室に入ってきたスティーブン兄弟は聖書を手にしていた。スティーブン兄弟は日本に来てからクリスチャンになったという。それまでの彼の人生は破壊的だったと、彼は語った。スティーブン兄弟は日本に来た後で日本人の女性と結婚し、娘を授かった。しかし、妻が精神的に不安定だったこともあり夫婦関係が悪化した。妻は娘の世話をしなくなり、離婚。娘は児童相談所に保護されることになってしまった。スティーブン兄弟によると彼の妻は滞在資格を奪うために彼について否定的な情報を入管に告げ口したのだという。その後スティーブン兄弟は入管に収容された。現在父、母、娘の3人はバラバラになっている。
自身が収容される根拠や手続きについて、スティーブン兄弟は納得していない。自分は犯罪を犯したのではないと言う。もし自分が犯罪を犯したのであれば、警察に捕まり、検察から起訴され、裁判で自分の主張を述べて自分を弁護し、判決を受けてそれに従うことになる。そのような過程を経るなら、反論や自分の主張を述べる機会がある。そして、法律や判例によって罰金の額や懲役の年数などは規定されている。しかし、入管が外国人を収容する場合はそうではないのだと言う。
入管法
事務所に帰った後で筆者も調べた。出入国管理及び難民認定法の第39条には「入国警備官は、容疑者が第二十四条各号の一に該当すると疑うに足りる相当の理由があるときは、収容令書により、その者を収容することができる。前項の収容令書は、入国警備官の請求により、その所属官署の主任審査官が発付するものとする」とある。
この通り、裁判では認められているような反対尋問、証拠検証、被告側の主張の陳述などの行為は一切、収容されようとする外国人には認められていない。これではまるで警察や検察が、裁判による法的な検証を経ずに被疑者を懲役に処すかどうか、懲役にするなら何年かなどを勝手に決めて刑務所に連行することを許可しているようなものだ。
入管法の収容について規定した第39条の文字数を数えると111字だ。違反調査、収容、審査、口頭審理及び異議の申出、退去強制令書の執行、仮放免を規定した入管法の第5章「退去強制の手続」は入管法の27条から55条までの合計27条9127字だ。
他の犯罪においてはどうだろうか。裁判、被告人の勾留、検証、証人尋問、鑑定、証拠保全、捜査、公判、控訴などについてさまざまな基準を法的に規定した刑事訴訟法は全部で507条あり、その文字数は10万文字を超える。犯罪を法的に規定した刑法は264条あり、4万文字より少し多い。警察官の権限などを規定する警察法、検察について規定した検察庁法、裁判所法などさまざまな規定がある。このように膨大な量の法的な規定があるからこそ、警察も、検察も、裁判官もそれぞれ役割と権限が分けられ、一つの組織の独断と裁量で恣意的に懲罰を与えることが抑止されている。
また、これらの法定基準に照らし合わせることで、恣意的な懲罰をすれば違法であることが判明するため、法律は懲罰を与える側の合法性を検証する道具としても機能する。これらの規定は人権侵害が起こることを防ぐための手綱であり、ガードレールのようなものに例えることができる。入管の外国人収容においてはそれがない。つまり、人権侵害を防止する法的規制がなく、人権侵害を起こしても入管は法によって罰せられることはない。それを規定する法がないといっていいほど、刑事事件と比べて自由裁量の余地が多いからだ。
刑事事件の発生から処罰に至る各法的手続きの過程で、警察、検察、裁判官、刑務官などの権限は分割されている。これらすべての権限と同等の権限を入管は外国人に対して持っている。そして収容するか否か、収容する期間はどうするか、釈放するかどうかなどの判断基準となる法的な基準が、刑事事件の犯罪規定や罰の規定などと比べるとほとんど法によって規定されていない。入管が行う外国人収容は、監視されることも検証されることもない入国警備官や主任審査官の自由裁量に委ねられた状態にあるということだ。入管は自由裁量によって非欧米出身の外国人を好き勝手に収容しても違法にはならず、自分たちが収容したのと同じ行為をしている欧米や中韓出身の外国人を見て見ぬ振りして収容しなくても違法にはならない。そこに国籍による差別があったとしてもだ。
権限の分割とどのケースでどのくらいの期間収容するのかを判別するための細かい法定基準の導入、入管の業務への監査と監視、人権侵害を犯した入管への罰則などを盛り込んだ、外国人の人権保護を強化するための入管法の法改正の必要性を感じるが、そのような法改正を公約にしたら国会議員は選挙で票を取れないと知人は言う。ではどうすれば解決するのだろうか。
愛する娘と聖書
「娘の写真を児童相談所から送ってもらいたければ、手紙を書き、何度も電話しなければなりません」とスティーブン兄弟は言った。彼は今収容所から出る申し込みをしようとしているが、それが通るかどうかは入管の自由裁量となるため分からない。スティーブン兄弟は大事そうに自分の聖書を開き、挟んであった娘の写真を筆者に見せてくれた。
収容される前にスティーブン兄弟に誰かが聖書をくれたのだという。聖書を読むことはなかった。しかしなぜか分からないが、その聖書をどこかに置き忘れることなく、いつも持ち歩くかばんの中に入れていたという。被収容者になった後、スティーブン兄弟は聖書を読み始め、クリスチャンになった。詩篇を読むことによって慰めと希望を得、箴言と伝道者の書(コヘレトの言葉)を読むことによって知恵を得たのだという。
娘と離れ離れになる前は、娘がどれほど自分にとって大事な存在なのか、分かっていなかったと言った。今彼が願うのは、娘と一緒になることだけだ。もし収容所から釈放されたら、何が何でも児童相談所から娘を引き取りたいと彼は語った。「もう一度娘と一緒にいられるなら、もう二度と彼女を一人にはしません」と彼は言った。
「分かりますよね。私の娘は半分日本人で、半分外国人です。彼女が学校に行くようになったらいじめられるのは簡単に予想できます。私たちが離れ離れで暮らさないといけないなら、娘が学校から帰ってきたときに誰も慰めてあげる人がいないことになります。誰かが娘の心の痛みを分かってあげないといけないんです。私は娘のそばにいないといけないんです」
スティーブン兄弟は言う。被収容者になる前、自分の人生はうまくいかなかったが、収容後にとても大切なことを学ぶようになったと。スティーブン兄弟に祈りの課題を聞いた。「娘とできるだけ早く再会できるよう祈ってほしい」
ピピーっと音が聞こえた。スティーブン兄弟を面会室に連れてきた職員が30分のタイマーをかけていたのだった。職員は面会室を出るように合図した。別れ際に、スティーブン兄弟は何度もありがとうと言った。筆者は何度も「祈るから」と言った。
品川入管を出て事務所に帰る途中で考えた。絶望的な状況にあってなおその人に活力を与える神の言葉、それが聖書だった。言葉の通じない環境にあっても自分のつらさ、悲しみ、喜びを天の父に伝えることを可能にする手段、それが祈りだった。