聖書はどんな聖書でもいいのか。
聖書ならどんな聖書でも結構です。新約聖書だけの聖書でも、新約聖書と旧約聖書の両方がついているものでも、分冊聖書といって、例えば、ヨハネ福音書だけの聖書でも構いません。ただし、次の幾つかの点には注意してください。
新世界訳聖書・・・これは“ものみの塔聖書冊子協会”が発行しているもので、いわゆる“エホバの証人”が行く先々で勧めているものです。この聖書は、“ものみの塔”の教理に合うように幾つかの改ざんをしていますから、警戒しなければなりません。
例えば、ヨハネ福音書14:9後段「わたしを見た者は、父を見たのです」とあるところを、その新世界訳聖書では「わたしを見た者は、父を〔も〕見たのです」と修正しています。こう直すと、わたしと父とが別者であるかのように思わせるわけです。
つまり、三位一体の神を否定する彼らの教理に巧妙に合わせてあるのです。教理は聖書から導かれねばならないのに、教理に合わせて聖書を直したのですから、狡猾かつ悪質なやり方です。このような聖書を用いると、彼らの言い分が正しいように思えるのですから、間違いの道に連れ込まれます。ですから、新世界訳聖書は改ざん聖書として、厳しく排除されねばなりません。
モルモン経(けい)とか、アブラハム書とかモーセ書などは聖書ではありません。これらは、モルモン教の聖典といわれるもので、彼らが勝手に作り上げたものです。読まないにこしたことがありません。
聖書といっても、旧約聖書と新約聖書の間にはさみ込まれている《外典》というものもあります。この《外典》はギリシャ語で書かれており、アポクリュファ(“隠されたもの”とか“秘密の”の意味)と呼ばれ、“奥義の書”とも言われていますが、しかし、聖書の正典ではありません。外典にはヘブル語の写本がなく、聖書の民ユダヤ人も聖書の正典ではないものとして取り扱っています。内容的にも、お伽ぎ話し的、奇想天外で、歴史的にも不整合です。これには、エスドラス書、トビト書、ユデト書、エステル書残篇、ソロモンの知恵、ベンシラの知恵、バルク書、スザンナ、ベルと竜、三童子の歌、マカベア書などがあります。
キリスト教も、これらを正典目録に載せず、宗教改革以後、プロテスタントは聖書から除き、「そこから教理や信仰基準をとるべきでない」としています。ただし、教派によっては、信仰者の德を養うに有益な点もあるとしています。また、その中、マカベア書は中間時代の歴史資料としては有益だとされています。
旧約・偽典という一群の書があります。アリステアスの手紙、エノク書、ヨベル書、十二族長の遺言、シビュラの託宣など。これらの多くは黙示文学的で、しかも著しく突飛で、空想的であり、聖書ではありません。
新約聖書・外典という一群の書もあります。その数は旧約の外典よりも多いし、その写本は多様な言語で書かれています。これには、アグラファ、ペテロ福音書、ニコデモ福音書、ヤコブ原福音書、トマス福音書、ペテロ行伝、ヨハネ行伝、セネカとパウロの往復書簡などがあり、全体はまだこれに倍するほど巻数があります。その作成年代はAD2、3世紀、遅くも4世紀で、当時の大衆が好んで読んだようで、西欧の芸術作品のモチーフにも採用されています。しかし、思想性は乏しく、聖書とは言えないものです。
以上、聖書にまがうものに惑わされず、聖書を深く、深く読みましょう。
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