聖書の預言は当たるのか。
預言者は、ひたすら神に近寄って生きようとし、神のうちにある真理を身近に見ようとしていました。当たるとか当たらないとかの意識ではなく、ただ自ら聞いた神の真理を語ろうとしました。真理であれば、当たるのは当然ということになります。
ただし、その後の事情を踏まえて神が実現を先送りしたり、違った形に変える場合がないとは言えません。
預言には、過去の出来事についての意味・見方・重大性などについての預言があり、また、現在の状況についてその問題点や打開策、悔い改めを求めるものがあり、そして、もちろん、未来のことをあらかじめ指摘しておくという預言もたくさんあります。処罰や解放、崩壊や救出など、すでに成就(実現)した預言がたくさんあって、聖書に記録されています。
例えば、アブラハムになされたエジプトでの苦役の預言、一人の子が与えられ、その子から星のように子孫が多く増えるとの預言、カナン所有の預言、モーセによってなされた出エジプトの預言、カナン入りの預言、40年の荒野の旅の預言、その後のイスラエルの堕落の預言、捕囚とエルサレム陥落の預言、バビロンからの解放と帰還の預言、周辺諸国についての預言、その後のエジプトについての幾つもの預言、ニネベやバビロンの滅亡、その荒廃についての預言、ユダやイスラエルの王たちの運命についての預言、ツロについての預言、ペルシャの王クロスについての預言、ギリシャの大王についての預言、救い主の預言、受難の死の預言、復活の預言、福音伝播の預言などなど。
例えば、エゼキエルをとおして「エルサレムの聖所の東向きの外の門は閉じたままにしておけ。あけてはならない」(エゼキエル44:2)と預言されていましたが、その後の歴史で長い間開けたままでした。ところが、トルコがこの地域を征服したとき、そのスレイマン大帝は1453年、何らかのうわさをおもんぱかってこれを閉じさせ、石を積み上げ、ふさいでしまいました。預言が実に2千年かかって実現したのです。現在もふさがれたままです。
また、エルサレムについて、イエスは神殿の徹底破壊と街の荒廃を預言しました。「ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される」と(マタイ24:2、23:38)。40年後のAD70年、ローマの包囲軍により破壊と荒廃が実現しました。
レビ記26章、申命記28、30章で預言されているイスラエル民族の大離散、迫害による苦難の歴史、パレスティナ帰還の預言はその後の約3200年間の歴史で、奇しい形で完全に実現し、結末はイスラエル共和国の建国となりました。
このほか、王について、聖徒たちについて、使徒について、たくさんの預言がなされ、大部分の実現を見ています。むろん、終末についての預言はまだ実現していませんが、いずれ成就することでしょう。聖書は神のことばですから、原則成就するのが当然といえるでしょう。
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