私が聖書の解釈とその方法論を模索している中で出会った幾つもの本の中に、かの有名な言語学者であるノーム・チョムスキーやその研究者たちの本や論文もあった。しかし、チョムスキーの著作もその「流派」の研究者たちの論文も、私にとっては難解なものが多く、「積ん読」状態の蔵書がどんどんと増えるばかりである。
そんな中で出会った本が、この酒井邦嘉著『チョムスキーと言語脳科学』だ。私なりに一言でこの本を要約すれば、「人間の脳はどのような構造の機械になっているから言葉を生み出すことができるのか、という疑問と格闘し、それに明快な答えを、意味を可能な限り排除した『統語論』として与えたのがチョムスキーだ」ということだと思う。しかし、この疑問そのものは新しいものではなく、すでに古代ギリシャのプラトンが、人間はどうして聞いたこともない新しい文を無数に作り出すことができるのか、を問うている(だから、「プラトンの問題」という名前が付けられている)。この古代ギリシャ以来の「謎」に挑戦して、あくまでも「科学的」な解答を出そうとしたのがチョムスキーだということが、本書では明確にされている。人間の脳が他の動物の脳とどのように違っているから、人間だけが複雑な言葉を話すことができるのかを、チョムスキーの「構想」を基に分かりやすく解説してくれるのだ。
著者は、なぜそこまでチョムスキーにこだわるのか。著者自らが科学者を志し、人間の言語を理解しようとしてニホンザルなどを研究していたが、チョムスキーの「構想」に出会ってサルでの研究では科学として「限界」があることに気が付いたからのようだ。だからこそ、著者は、エヴェレットやトマセロなどのチョムスキー批判者に対して、非「科学」的だと「歯に衣着せぬ反論」を浴びせつつ、読者たちにチョムスキーの『統辞構造論』を虚心坦懐(きょしんたんかい)に読むべきだと、強く訴えている。そういう意味では、非常に挑戦的な本でもある。
だから本書の後半は、『統辞構造論』の解説に加え、最近の「文法中枢」に関わる脳科学研究の解説となっているが、今までの私には難解であった専門用語も、この本によって一挙に氷解していく快感が面白い。とにかく、出されている例が分かりやすいのだ。ミンミンゼミの鳴き声を例に挙げ「有限状態オートマトン」という概念を説明して、「動物の鳴き声を研究しても人間の言語の解明は『不可能』」だと明快に説明する。また、「だんだんととんだんだ」などの「回文」から「鏡像言語」という概念を説明し、人間の言語は[三郎が[次郎が[太朗が言ったと]知ったと]思った]など「埋め込み文」を「回文」のような構造で無限に作り出すことが可能であり、チンパンジーが人間の言葉をまねることとは本質的にまったく違うことが、立体的に明確にされてゆく。
このような理解は、言語を「自然科学」の対象としているという点で重要である。まさにチョムスキーは、人間の言語を、実験と観察を通して普遍的な原理を抽出する「自然科学」の対象にすることを目指したのだと、著者は訴えているのだ。
あらためて「あえてキリスト教的に」言い換えるならば、チョムスキーは「神がどんな『器』として人間を創造したから、人間は言葉を話すことができるのか」という疑問と格闘した(そして今でもしている)人物だ、とでも言えばいいだろう。まさにチョムスキーの試みは、「バベルの塔」以前の人類の共通言語を再現するかのような壮大な挑戦だと思われる(ちなみに本書では人類初の言語は「一卵性双生児」から生まれたという興味深い仮説が示されている)。なお、この本でも触れられているが、チョムスキーが最初に研究したのが、旧約聖書の言語であるヘブライ語だった、ということは注目してよい。チョムスキーも、母語であるアメリカ英語とは文法がまったく違う聖書の言語を研究することがなければ、人類に共通する「普遍文法」なる原理を見いだすこともなかったのかもしれない。
もはや「人工知能」と人類が共存することを現実の問題として受け止めなければならない時代になったが、「人工知能」と「人類の脳」との間にある「共通性」と「相違点」をめぐっての理解を深める上でも指針となる本である。
分かりやすい本に出会うと、本当に気持ちが良い。
■ 酒井邦嘉著『チョムスキーと言語脳科学』(集英社インターナショナル、2019年4月)
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