十字架につけられたイエス・キリストが復活後、2人の弟子に現れたとされる町、エマオ。その場所が特定された可能性がある。
イスラエルのハアレツ紙(英語)によると、2017年からエルサレムの西数キロに位置する丘陵地「キルヤト・エアリム」で発掘作業を行っていたイスラエルとフランスの共同調査隊が、セレウコス朝シリアの将軍バキデスが、ヘレニズム時代に建造した可能性のある要塞の一部とみられる約2200年前の城壁を発見した。バキデス将軍は、旧約聖書続編の「マカバイ記」に登場し、ユダヤの英雄、ユダ・マカバイを打ち破ったと記されている。さらにバキデス将軍は、エルサレム周辺の多くの町を要塞化したとされ、それらの町の名がマカバイ記一9章50節に列挙されており、その中にエマオ(聖書協会共同訳、新共同訳では別名「アマウス」で表記)も含まれているのだ。
サムエル記(上7章1、2節、下6章)に記されているように、キルヤト・エアリムはダビデ王がエルサレムに運ぶ前まで「契約の箱」が保管され、祭司エルアザルによって管理されていた場所だ。
一方、ルカによる福音書24章には、死からよみがえったイエスがエマオへの途上で2人の弟子に初めて姿を現したと書かれている。それによると、2人の弟子たちがエルサレムからエマオに向かって歩いていると、復活したイエスが近づいてこられ、弟子たちと共に歩き始めた。だが弟子たちは最初、その人物がイエスであることに気づかなかった。
後に一行がエマオに到着すると、弟子たちは、日暮れが近いので一緒に泊まるようイエスに提案し、イエスはその申し出を受け入れる。イエスがパンを裂き、食べ物を祝福されると、弟子たちの目が開き、2人はイエスだと気づく。するとイエスは、2人の視界から姿を消してしまう――。
ルカによる福音書24章13節には、エマオはエルサレムから60スタディオン(約11キロメートル)の所に位置していたと記されている。
キルヤト・エアリムでの発掘作業は、イスラエルのテルアビブ大学で考古学を専門とするイスラエル・フィンケルシュタイン教授と、フランスの国立特別高等教育機関「コレージュ・ド・フランス」で聖書学を専門とするトーマス・レーメル教授が主導して行われている。2人は今回の発見から、キルヤト・エアリムおよび隣接する町アブゴーシュを、エマオと同一視できると考えている。
バキデス将軍が要塞化したエルサレム周辺の町のうち、マカバイ記一9章50節に記されている町の多くは、すでに場所が特定されている。それらはエルサレムの北や南、あるいは東で発見されており、その幾つかからはヘレニズム時代の要塞跡が見つかっている。一方、マカバイ記一9章50節に記されているエマオは、まだ正確な場所が特定されていないが、エルサレムの西にあったと考えられている。
キルヤト・エアリムは、その名前自体はマカバイ記一9章50節には記されてないが、エルサレムの西10数キロメートルに位置し、「地理的にエルサレムまでの距離が合致していると思われます。従って、キルヤト・エアリムは新約聖書のエマオなのではないかと思われます」とレーメル氏は言う。
一方、2人の主張に釘を刺す声もある。古代史が専門のテルアビブ大学のベンジャミン・アイザック名誉教授は、2人の主張について「考古学的、地理的、地形的に十分な言い分があります」と認めつつも、「しかし、それはあくまでも仮説なのです」と言う。
アイザック氏は、エマオをキルヤト・エアリムと結び付けるには、まだ十分で確固たる証拠がないと警鐘を鳴らす。アイザック氏によると、キルヤト・エアリムの付近には、エマオの候補となり得る場所が少なくとも別に2つある。
ギリシャ教父の一人で歴史家でもあったカエサレアのエウセビオス(263頃~339)は、現在のテルアビブ・ヤッファとエルサレムを結ぶ幹線道路沿いに位置するアヤロン渓谷にあるビザンツ帝国時代の町エマオ・ニコポリスを、ルカによる福音書に記されているエマオだと見なした。
エマオ・ニコポリスは1967年の6日間戦争で破壊され、現在は国立公園の一部となっている。しかし、エマオ・ニコポリスはエルサレムから約24キロの所にあり、ルカによる福音書に記されている距離の2倍に当たる。
ハアレツ紙によると、キルヤト・エアリムとエルサレムの間にある現代の町モツァを、エマオがあった場所だと考える人もいるという。しかしモツァは逆に、エルサレムに近過ぎて、ルカによる福音書の描写に合わない。
レーメル氏によると、エマオという言葉は、ヘブライ語で「温泉」を意味するギリシャ語の言葉で、エマオという名の町は一つではなく、複数存在していた可能性が高いという。