ヘブライ大学などの研究者チームの発表によると、ダビデがサウル王から逃亡していた際、隠れ住んでいた町が発見された可能性がある。
発見されたとみられるのは、旧約聖書のサムエル記や歴代誌などに登場する町ツィクラグ(新共同訳、ツィケラグ:新改訳、チクラグ:口語訳)。ツィクラグは、当時イスラエルが戦っていたペリシテ人の町だったが、サウル王に追われていたダビデは、ペシシテ人の地に逃れ、この町に住むことを許される。
ダビデは心に思った。「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない」。(中略)ダビデは立って、彼に従う兵六百人と共に、ガトの王、マオクの子アキシュのもとに移って行った。(中略)その日、アキシュは彼にツィクラグを与えた。こうして、今日に至るまでツィクラグはユダの王に属することになった。(サムエル上27:1~6)
ヘブライ大学やイスラエル考古学庁(IAA)、オーストラリアのマッコーリー大学の研究者らによるチームによると、イスラエル南部の都市キリヤットガット近郊で発見されたキルベット・アライ遺跡が、ツィクラグだと考えられるという。同遺跡の発掘作業は2015年から行われており、発掘面積は約千平米に上る。
これまでツィクラグは、キブツ・ラハブ近郊のテルハリフや、西ネゲブのテルセラおよびテルシャバなどが候補として挙げられていた。しかし、前出の研究者らによると、キルベット・アライ遺跡には、ペリシテ人の居住地であった証拠に加え、ダビデの居住地であった証拠も初めて見られたことから、この地こそツィクラグであるとする結論に行き着いたという。
同遺跡で見つかった紀元前12世紀から11世紀のペリシテ時代の遺物には、ペリシテ文明の典型である広大な石造りの建造物も見られる。また、建築作業中に幸運をもたらすささげ物として建造物の床下に置かれたと考えられる鉢数点やオイルランプ1点も発見された。
さらに付近では、猛烈な火災で消失したことを示す紀元前10世紀初頭ごろのダビデ時代の農村集落も見つかった。
ダビデや部下らが居住していた時代、ツィクラグはアマレク人に襲われ、焼き払われたことがあると聖書は記述している。
三日目、ダビデとその兵がツィクラグに戻る前に、アマレク人がネゲブとツィクラグに侵入した。彼らはツィクラグを攻撃して、町に火をかけ、そこにいた女たち、年若い者から年寄りまで、一人も殺さずに捕らえて引いて行った。ダビデとその兵が町に戻ってみると、町は焼け落ち、妻や息子、娘たちは連れ去られていた。ダビデも彼と共にいた兵士も、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。(同30:1~4)
さらに遺跡からは、聖書に登場する別の都市シャアライムと考えられている、ユダヤの要塞都市キルベット・キヤファで発見されたものと同種の陶器約100点も発見された。
シャアライムについては、ダビデがペシシテの巨人戦士ゴリアト(ゴリアテ)を倒した際、逃げ出したペリシテ軍についての記述などで登場する。
イスラエルとユダの兵は立って、鬨(とき)の声をあげ、ペリシテ軍を追撃して、ガイの境エクロンの門に至った。ペリシテ人は刺し殺され、ガトとエクロンに至るシャアライムの道に倒れていた。(同17:52)
これらの遺物の発見は、ダビデ時代の日常生活を知る手掛かりとなる可能性がある。多くの器が発見されているが、それらは油やワインの貯蔵に使われた中大型の貯蔵瓶だった。また、ダビデ時代の典型的スタイルとして知られる「手磨きの滑らかな赤色の」水差しや鉢も発見された。