イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。(マタイ4:18〜20)
ある女性が「うちの教会の牧師はギラギラしていて嫌いだ」とSNSに投稿しているのを見ました。このギラギラというのはどういう意味なのだろうかと、私自身の牧師としての現役時代を思い起こしながら考えてみました。
教会で牧師をしていたときは、頭の中はいつも信徒数を増やすこととか、いかに献金収入を増やすかということでいつも頭がいっぱいでした。そのためにさまざまな企画を立案し、信徒数を増やすためのアプローチをしてみたつもりでしたが、すべて失敗に終わり、いつも空回りをしていました。
ある程度の信徒数を保持し、立派な会堂を建てている牧師を羨望(せんぼう)と嫉妬の思いで眺めていました。いつか立派な会堂を建てられるような牧師になってみたいという思いが心の中にありました。その状態は正しくギラギラだったかもしれません。しかし、少しも実現できませんでしたので、ボロボロの牧師だったのではないかと思います。
「牧師がギラギラしている」と投稿している女性に、「ギラギラではなくキラキラだったらどうか」という返信がありました。そうすると「キラキラしている牧師なら素敵だ。そういう人についていきたい」というような反応がありました。内面からあふれる魅力を持つ牧師だったら誰でもついていきたいと思うはずです。
聖書の福音書や使徒の働きの書を何度読んでみても「信徒数を増やしなさい」とか「立派な会堂を建てなさい」という教えはどこにもないことに気付きます。イエスご自身は会堂どころか自分の家さえ持っておられませんでした。「伝道集会に何人集まるのか」ということなど一切心配していらっしゃいません。むしろ自分の方から人々のいる所に出向いて行って語っておられます。イエスの教えに感動した人々が群集となって押し寄せてくると、湖のほとりや丘の上などがたちまち集会場になりました。
ガリラヤ湖で漁をしていたペテロとアンデレにイエスは声を掛けられます。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしよう」。「人間をとる漁師」とは直接的には「生け捕りにする」という意味になりますが、「生きた者とする」という解釈もできます。生きがいを失って死んだような目をしている人が、たちまち生き生きとした人間に生まれ変わることができるという意味です。
もしこのような能力を持った人がいたら、周りに変革を起こし、すさまじい変化をもたらすはずです。しかもペテロとアンデレには「漁師のままでいいよ、そのままでいいよ、何も特別なことはしなくていいよ、ただわたしについて来なさい」と呼び掛けておられるように思います。自分の中にある既成概念をすべて取り払って、ただイエスに従うことだけを考えたら、「生きる力を分かち合うキラキラした人」になれるのではないかと思います。
鹿児島の宗教者懇和会で平和をアピールするために、広島に原爆が投下された8月6日にそれぞれの宗教者の装束で、恵まれない子どものための街頭募金を行い、街の中で、原爆の火を先頭に平和の鐘を鳴らしながら、平和巡礼を行いました。まず、ザビエル教会で共に祈り、街の中を巡り、西本願寺に向かいました。冷たいお茶の接待を受けて、本堂で共に祈りをささげました。それから照国神社に向かいました。神社では宮司さんが奥まで案内してくださり、「それぞれの宗派のやり方で祈ってください」と語られて、共に祈りました。120名の参加者がありましたが、とても和やかなひとときを過ごすことができました。
鹿児島では宗教者間の協力に歴史があります。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したとき、曹洞宗のお坊さんが自分のお寺をザビエル一行に宿として提供し、ザビエルはお寺の本堂でキリスト教を説いたのです。ザビエル上陸から470年たつ今日、ザビエル教会が曹洞宗のお坊さんが主宰する集会に教会の一室を提供しています。お互いに相手の立場を尊重し、大切にするとてもいい関係だと思います。
周りの人々を巻き込んで、死んだような状態から生きた者へと変える変革を起こすことができるなら、この社会は変わります。生きる力を分かち合う人になるためには、老若男女関係ありません。所属する宗教も関係ありません。ただイエス様についていけばいいのです。
神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ1:27)
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