人は自分の存在の起源をよく考える。人はどのようにして人になったのか? 生物の起源はどこにあるのか? さまざまな学説があるが、どれも的を射たものが存在しない。それどころか、科学の進歩とともに、生物の不思議なありさまが次々と見いだされ、その起源を科学的に見極めることは、ほとんど不可能になっている。
地球上に生命誕生の痕跡・条件は存在しない
自然を熱心に研究している人は世界中に大勢いるが、今まで誰一人として生物が自然発生するところを観察した人はいない。また、さまざまな仮説に基づき、実験室で太古の地球環境を再現する無数の実験が行われたが、生命体が発生した記録はどこにもない。
「生物は、生物から生まれるのであって、自然発生することはない」という結論は、既に自然科学の発展によって出ている。しかし、それでも、生命の起源を何とか科学的に導きたい現代人は、今も新しい仮説を求め続けている。
宇宙空間に生命の起源がある?
「宇宙には高度に進化した生物がいて、その生物が隕石や彗星を用いて、地球に生命の種子になるものを送り込んだ」というSFのような仮説が支持されるようになった。
地球上で生物が自然に発生しそうもないので、宇宙に関心が向いたのだろう。確かに、隕石の中にも有機物が見つかることがあるようだ。仮説としては成立するが、ほとんど解明不可能な宇宙が対象なだけに、この仮説を立証するのも、反例を見いだすのも難しい。
当分の間、宇宙探査機が持ち帰る岩石などから有機物などが見つかると大騒ぎになることだろう。しかし、仮に万が一、宇宙空間に地球外生物がいるとしても、その生物はどこから来たか? 疑問は深まるばかりである。
生物が進化した痕跡はどこにもない
生物が自然発生しないことは認めざるを得ないが、進化を否定する人は意外と少ない。しかし、進化に関しても、進化を確認した人がいないばかりか、進化論を否定する反例が目立っている。
私も、幼いころより進化の系統図を教え込まれたこともあり、生物は長期間かけて次第に変化してきたと思い込んでいた。ところが、ある時、進化の過程を証明する中間生物が、化石の中に見いだされないことを知って驚いた。
大変、興味深いことだったので、私なりに調べてみたが、中間生物と思われていたものは、進化論者が系統図をうまく説明するために利用した全く別の生物だった。進化を裏付ける中間生物が見いだせないことは、進化論(仮説)を否定する決定的な反例と言えるだろう。
創世記1章は見事に自然界を表現している
初めに、神が天と地を創造した。(1節)
聖書は、いのちの起源が、神(創造主)にあることを前提にしている。生物の自然発生や進化の探求から離れ、創造主の存在を前提にこの世界を眺めてみるといい。聖書の記述が、自然界を見事に表現していることに気付くだろう。
そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(3節)
時間と空間の基準を担っているのは「光」である。その「光」を創造される神様なら、その方こそ、この宇宙の中に地球を浮かべ、私たちが生きる時間と空間を備えることができる方である。
ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。(6節)
水の性質と生物の関係は大変深いものだ。水の特異な性質の故に生物は生きていくことができる。神様は、生物の生きる環境を細やかに準備された。
神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。(16節)
太陽と月の存在は、生物が生き続けるためのリズムを与える。地球との距離や傾きも絶妙に調整されている。
・・・地は植物、種を生じる草、種類にしたがって・・・(11節)
・・・海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥・・・(21節)
・・・神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうもの・・・(25節)
神様は種類に従って生物を創造されたと何度も繰り返し書かれてある。種類を超えて生物が変化(進化)することのない自然界の様子を、見事に表現している。
自然科学は、神様の創造の業をひも解くものではなく、神様によって造られた被造物の秩序を扱うものである。生物の起源を知りたいと願うなら、まず、創造主である神様の本質を知るべきだろう。自然科学に向かう日本人の姿勢が、そろそろ変わっていくことを心より期待する。
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