21日から公開される映画「パピヨン」は、1973年に公開され、名作の仲間入りを果たした同名映画のリメイク版だ。オリジナルはスティーブ・マックイーンが主演し、ダスティン・ホフマンが脇を固めるという豪華俳優陣に加え、脚本がダルトン・トランボ。彼は赤狩りによって職を奪われ、偽名を使ったり、名義を借りたりしながら数多くの脚本を書き上げたという伝説のライターである。
本作では、「パシフィック・リム」のチャーリー・ハナムと、「ボヘミアン・ラプソディ」(レビューはこちら)で2018年度アカデミー賞最優秀主演男優賞を獲得したラミ・マレックの2人が共演する形になっている。ハナムが主人公のパピヨンを、マレックがルイという偽札作りのプロに扮(ふん)している。名作脱獄物をリメイクするという至難の業に挑んだ監督は、マイケル・ノアー。日本ではあまり知られていない監督であるが、国際的には評価が高い。
物語は、実在の人物であるアンリ・シャリエール(1906~73年)の自伝的小説『パピヨン』を原作としている。フランスで生まれたシャリエールは、幼少期からギャングの一員となり、その名をはせる。胸にチョウ(フランス語でパピヨン)の入れ墨があることから、あだ名で「パピヨン」と呼ばれるようになる。そんな彼が数奇な運命に翻弄されながらも、それでも諦めずに自由を希求した生き方に、当時の人々は拍手喝采を送った。
それは映画のみならず、脚本を書き上げたトランボに対しての賞賛でもあったといわれている。赤狩りによって映画仲間が次々と「共産主義者」に仕立てられていく中、彼と仲間たちだけは決して密告などすることなく、世間の非難を一身に浴びながらも自らの生き方を曲げなかった。その強さが、パピヨンという人物の中にある芯の強さと共鳴しているのだろう。観客は単に、作中の主人公の言動に感動しただけではない。このような物語を書き上げたトランボに感動した、という一面もあるということだ。
作中の主人公パピヨンもまた、実在のシャリエール同様、無実の罪を着せられ投獄される。そしてどんな拷問や懲罰にも心折れることなく、ついに脱獄を果たす。そこに至るまで、パピヨンはさまざまな人間と出会う。刑務所内で生まれた友情に支えられることもあれば、逆に対立や裏切りによって売られてしまうことも体験する。しかしどんな境遇に陥ったとしても、彼は自由を希求することをやめず、それを脱獄という手段で実現しようと試みた。この一途な生き方は、フランス革命以後、人権を高らかに宣言して欧州に革命を引き起こしたお国柄が色濃く表れているともいえよう。
パピヨンたちが収監されているのは、フランス史上最悪の流刑地として悪名高い、フランス領ギアナのサリュー諸島にある「デビルズ島(悪魔島)」に建設された刑務所だ。詳(つまび)らかに描かれる刑務所内の非人道的な様子やそこでの日々は、オリジナルに劣らない強烈なイメージを観る側の私たちに突き付けてくる。1度目の脱獄が失敗して独房に2年、2度目の失敗で5年という途方もない年月が無為に流れていくのである。多くの囚人は、この離れ小島の刑務所で囚人同士のトラブルから殺されたり、風土病に侵されたりして命を落としていく。
そんな危険な場所で、どうしてパピヨンは生き延びることができたのだろうか。観終わってふと思い出したのは、同じ脱獄物の名作「ショーシャンクの空に」(1994年)である。こちらは、ホラー小説の大家スティーブン・キングの短編小説を原作としつつ、映画化のために大胆にアレンジしたもので、同じく主人公が脱獄するまでを描いている。両作品とも、事前に練った計画が頓挫しそうになったり、思わぬハプニングが起こったりして観る者をハラハラさせる。しかし、その作風はまったく異なっている。
「ショーシャンクの空に」はあくまでも理知的に綿密な計画を立て、それを一気に敢行する主人公の天才的な姿が描かれている。一方「パピヨン」は、どちらかというと力技で事態を乗り切ろうとする荒々しさが前面に出ている。完全なフィクション(「ショーシャンクの空に」)と、セミ・ノンフィクション(「パピヨン」)の違いであろうか。本作では、自由を求め、何者にも拘束されたくないという人間の根源的な欲求(欲望といってもいい)が前面に押し出されている。
多少のネタバレになってしまうが、最終的に彼の脱獄は成功する。だから本も出版できたし、こうして映画化もされることになった。だがその最終局面は、彼が「委ねる」ことによって引き起こされた成功(脱獄)だったのである。今までは自分の力で何とかして自由を得ようとしてきた彼が、最後の最後であるものに委ねざるを得なくなる。この発想の逆転により、彼が一番望んでいたものを結果的に引き寄せることになったのである。
人は誰もが不自由さを感じるとき、そこから抜け出たいと願う。そして、自由を求めてもがき始めることになる。もがいている最中は、何とかして自分の力で自由・解放を手にしたいと考えるだろう。しかし、それはなかなかうまくいかない。自由になったと思うと追手が迫ってくる。逃げ延びて解放されたと思うと、忘れていた過去のしがらみが姿を現す。実はパピヨンの半生で描かれていたのは、人間が求めても得られず、願ってもかなえられない、そんな私たちの現実をデフォルメして投影しただけのものではないのか――。
その最たるものを、キリスト教用語では「罪」と呼ぶ。そして真に罪から解放されることを「救い」と呼ぶ。そうだとしたら、本作の主人公は、罪のしがらみを断ち切るため、「委ねる」ことを学んだことで救われた、とメタ的に解釈することができるのではないだろうか。
観終わってこんな聖書の言葉を思い立った。
あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。(箴言16:3)
キリスト教の教訓は結構逆説的だ。欲しいと思うなら委ねよ。やりたいと思うならまず留まり祈れ。得ようとするならむしろ余計に差し出せ。憎まれたら愛せ――。
そんな逆説的な信仰の在り方をメタフィジカルに語り合える一作だといえよう。
■ 映画「パピヨン」予告編
◇