古くは「タクシードライバー」、そして「レイジング・ブル」などの傑作を手掛けた脚本家として知られるポール・シュレイダー。その彼が構想50年という恐ろしく長い年月をかけて練り上げた渾身の一作、それが「魂のゆくえ」である。
トロント映画批評家協会賞で主演男優賞と脚本賞を受賞した本作は、これ以外にも約60の映画賞を受賞している。ちなみに今年のアカデミー賞脚本賞にもノミネートされた。残念ながら受賞はならず、その座は「グリーンブック」に獲られてしまったが、ポール・シュレイダーへの信頼と評価は、1970年代から変わっていないようだ。
メインキャストはイーサン・ホークとアマンダ・セイフライド。2人の息詰まるような演技合戦も見ものである。物語の舞台は、ニューヨークにあるオランダ改革派教会「ファースト・リフォームド教会」。創立から200年以上たつこの伝統的な教会は、今では観光客しか足を向けない、うら寂れた教会であった。しかし「ファースト」という冠をいただいているように、その年に行われる250周年の記念式典には、大勢の来客が予想されていた。
この教会に数年前に赴任してきたのが、イーサン・ホーク演じるトラー牧師である。彼がこの伝統ある教会の裏側に存在する「ある事件」に気付いたことから、物語は思いも寄らぬ方向へ加速していく。そして観客の誰もが予想しないであろう結末に向かって一気に突き進んでいくことになる。
こういった宗教や教会をモチーフにした映画は(ホラー映画を加えなくとも)、米国には多く存在する。明るく楽しく、そして希望に満ちた物語であれば、「天使の贈りもの」や「天使にラブソングを」シリーズなどが挙げられよう。一方、「信仰とは何か」「教会とは何か」などを真剣に突き詰める映画も数多く存在する。多くは福音派系の「祈りのちから」や「天国は、ほんとうにある」のような、主に伝道を目的とした作品群であるが、中には教会のドロドロとした人間関係を描く「グリーンリーフ」(テレビドラマシリーズ)、実在の牧師の言動をセンセーショナルに取り上げた「神の日曜日」(2つともネットフリックスで鑑賞可能)などがある。
しかし本作は、これらのキリスト教映画では語られてこなかった新しい要素が加えられている。それは「環境問題」である。地球温暖化、気候変動などに対して、教会はどう向き合って(または無視して)きたか、というテーマである。
アマンダ・セイフライド演じるメアリーは、トラー牧師の教会に通っている。彼女はトラー牧師に、夫のマイケルが環境問題に傾倒するあまり最近様子がおかしいと告げる。そこでマイケルと話をすることになったトラー牧師は、彼の心の闇を知ることになる。しかし、問題はマイケルだけではなかった。彼と語り合うことで、むしろトラー牧師自身の内に秘められていた「本音」が顕在化してきたからである。
彼は、イラク戦争に息子を従軍牧師として送り出し、その息子を戦死させていた。これを自身の罪であると受け止めていたトラー牧師は、「果たして自分は神の前に赦(ゆる)されているのか」という、牧師としてはあまり健康的ではない問いを抱えていたのである。
環境問題とキリスト教というと、2000年代から大きくクローズアップされてきた課題である。福音派内においてすら、一致は得られていない。これを「神から与えられた新たな課題」と受け止める一派がいる一方で、「地球温暖化など神話である」とうそぶく指導者たちが存在することも事実である(マーク・R・アムスタッツ著『エヴァンジェリカルズ アメリカ外交を動かすキリスト教原理主義者』第8章1節「気候変動」参照)。そして、得てして後者の立場にある教会はメガチャーチが多い。
物語が進むにつれ、ファースト・リフォームド教会は単体で存在しているわけではなく、この伝統的だがほとんど信者のいない教会を、実質的に支配している別のメガチャーチが存在していることが明らかになってくる。この展開は、確かに現代米国教会の問題を鋭く指摘しているといえよう。
どんなに少ない教会員であっても、一人一人に向き合おうとするトラー牧師に対し、メガチャーチの主任牧師は「式典で誰が州知事を紹介するのか」「来賓は誰が来るのか」ということにしか興味がない。そして、この式典を成功させるために巨額の献金をした、ある企業の重役である白人男性に頭が上がらない。実は彼の会社こそ、環境破壊を行っているとして各方面から批判を受けていたのである。だが、教会内ではそのことに誰も触れない。牧師であっても、多額の献金者には実質的に指導できないというダークな一面を皮肉った描写であろう。
これは今も昔も、キリスト教会が抱える永遠のテーマと言える。本作の邦題となっている「魂のゆくえ」を誰が方向付けるのか。真に神の前に立てるのは、どんなキリスト者なのか。メガチャーチは果たして「教会」なのか「コミュニティー」なのか。本作は、現代米国教会のさまざまな事情を反映させていることを感じさせる。
だが、本作にトラー牧師が彼らの不正を暴き、環境問題に一矢報いるような展開を期待してはいけない。彼は肝心な時に意見することができず、ただ本音を日記帳に書き連ねる日々を送ることしかできない小心者なのである。劇中、牧師として祈る場面、サクラメントを執行する場面では、必ず半ばでモノローグがこれにとって代わってしまう描写がある。一見すると、聖職者としての務めに熱心に励んでいるように見えるが、本音ではこれらを冷ややかに見ているトラー牧師自身の感情がつづられているのである。
牧師といえども人間、という使い古された言葉だけでは言い尽くせないほど、トラー牧師の生活、そして信仰はすさんでいることが示される。
本作のラスト、おそらくクリスチャンではない一般の観客は、一体何が起こっているのか理解することが難しいだろうと予想される。それくらい衝撃的で、インパクトのある終わり方をする。さすがは「タクシードライバー」で、ロバート・デ・ニーロ演じるトラヴィス青年を生み出した脚本家である。ロバート・デ・ニーロが「動的なトラヴィス」だと仮定するなら、本作のイーサン・ホークは「静のトラヴィス」である。そして深刻度はこちらの方が深いと思われる。責め苦を自らに課すことほど、キリストに倣う者の敬虔な姿勢に見えるだろう。しかし、内実はどうかについては本人と神以外には分からない。これが現実である。
かつてキリスト教がローマ帝国で国教化し、迫害されていた時代から一気に世のメインストリームへと躍進していった時代があった。ところがそのようなキリスト教の在り方を疑問視し、いわゆる隠遁(いんとん)生活を求めて人里離れた地に住み、しかも過酷な修行を自らに課すことで神に近づこうとした集団が存在した。中には、柱に登りその上で生活する「柱頭行者」と呼ばれる人々もいた。
本作はそんな現代の「柱頭行者」的な物語である。彼が採ったあの行動を非難することはたやすい。しかし彼を非難するなら、返す刀で「私たちはどうか?」と問われることになる。それが嫌だから、キリスト教界の暗部にはアンタッチャブルでいよう、と決め込むことも一案である。だがそれでは真摯(しんし)に神の前に向き合っているとはいえないことになる。まさに本作のメガチャーチ側が陥っている論理がそれである。
本作は、キリスト者としてある程度「覚悟」を持って鑑賞すべき劇薬である。無防備に「キリスト教の映画かな?」と軽い気持ちで行くなら、劇場を出るときは暗くうつむいてその場を去ることにもなってしまうだろう。だが、それでも目を背けてはならない大切なメッセージが語られているのも事実である。
最後に本作のテーマとなる御言葉で締めくくろう。
「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」(ルカ9:23)
トラー牧師の「十字架」とは何であったのか。それは現代のキリスト者にとっても「十字架」であるのか。そのあたりを誰かと議論したくなる、裏「タクシードライバー」的な怪作である。
本作は、4月12日(金)からヒューマントラーストシネマ渋谷ほかで全国順次公開される。
■ 映画「魂のゆくえ」予告編
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