聖書の無誤性論争でも起こり得ることだが、無理に聖書を解釈しようとする人がいる。
しかし「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである」(2ペテロ1:20、口語訳)とあるように、聖書は自分勝手に解釈すべきではない。だが、聖書に意味がはっきりと分からない箇所があるのは事実である。
では、そのような場合はどうすべきであろうか。
これは、ラジオと雑音の関係に例えられる。みなさんはラジオを聴いたことがあるであろうか。ラジオは各放送局の番組を聴きたいとき、各局の周波数に合わせることで聴くことができる。
私はよく車に備え付けのラジオを聴くが、車の型が古いのかよく雑音が入る。ラジオは受信感度が悪いと、雑音が入ってしまうのである。
しかしいくら雑音があるといっても、番組の内容がまったく分からないというほど悪いわけではない。少し聴きづらいが、何を言っているのかは理解できる。
これと同じで、聖書にも「よく理解できない箇所」という雑音がある。しかしそれが分からないからといって、聖書全体を理解できないほどではない。
聖書は、私たちを間違いなく主イエス・キリストの元に導く書物である。
<聖書のみことば>
「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」(2テモテ3:15)
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箕輪勇気(みのわ・ゆうき)
1981年名古屋市生まれ。2002年受洗。05年から4年間、神学校(信徒向けコース)で学び、現在は社会人として働きながら妻と共に一般信徒として教会に仕える。2児の父。