安息日は、宗教的な理由だけでなく、実践的な理由から見ても、私たちが守るのにとても大切な1日である。
すべてのクリスチャンは、神が何かを命じるときはいつでも、それが私たちの害や損失のためではないことを心に留めておくべきだ。神の命令に従うことに何一つ悪いことはなく、実際のところ、それは私たちにとって非常に有益かつ助けとなる。では、安息日とはどれくらい重要なのだろうか。
神が出エジプト記20章8節で語られる、安息日を聖別し守るという命令は、クリスチャンにとって単に日曜日に教会に行くことを意味する宗教的戒めではない。少し良い服を着て教会に行き、賛美を歌い、座り、牧師の話を聞き、また少し賛美を歌って家に帰るということ以上のものなのだ。
まず、安息日について触れられている出エジプト記20章8~11節で、神ご自身がどのように語られているかを読んでみよう。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト20:8~11)
1. 労働から解かれ休む日
神が明確に語られていることは、私たちは6日間は仕事をするが、7日目には仕事の手を止めて休むべきだということだ。
一方、聖書の中の宗教的な人々、とりわけファリサイ派の人々は、この命令を極端に解釈し、7日目にはどんな形の仕事をも禁止した。しかしイエスは、事の本質は、宗教的な戒めとして安息日を守ることよりもむしろ、善を行うこと、神を喜ばすことにあることを示している。
人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。(マタイ12:12)
そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。(ルカ14:3、4)
そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」 彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。(マルコ3:4~6)
2. 神を求める日
次は「神を求める日」という視点で考えてみよう。もし安息日を単に仕事を休む「休日」と考えるのであれば、安息日に働く聖職者たちはどうだろうか。休日に働くことで、彼らは神の命令を破ることにならないのだろうか。
安息日は、週の定まった曜日以上のものだ。毎週、神を探し求める目的で特別に定められた日である。ただの休日よりも、もっと素晴らしい日である。多くの人が休日には、家族と食事をしたり、長い週の仕事の後でリラックスするために外に出掛けたりする。しかし残念ながら、祈り、神を求めて休日を過ごす人はあまりいない。
神が「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と言われたことに注目しよう。「聖なる」とは「取り分ける」という意味であり、これは、安息日を他の目的から取り分けて、神を求めるための日とせよ、ということを意味する。
3. 他の人にも神を求めてもらう日
私たちが安息日を「神を求める日」と見なすなら、他の人たちにも神を求めてもらうために私たちは考える必要がある。
安息日は、あなたの配偶者があなたの隣で神を求めるのに最適な1日である。もし子どもがいるなら、神に敬意を払うことを教える素晴らしい日である。さらに、家政婦などがいるのなら、彼らに休暇を与え、彼らが神を求めることを励まそう。
神は、すべての人、また動物さえもこの日、神の栄光のために休まなければならないと語られた。私たちはこの日、主であるイエス・キリストを皆に知らせることを求められているのである。