クリスチャンは、祈り、礼拝し、聖書を読むために、まとまった時間を取り、またその時間をより充実したものにするよう、奨励されている。この鍛錬は「静思の時」または「ディボーション」などと呼ばれ、神との日々の歩みにおいて最も重要なものだ。私たちが、神との交わりや、神に従うことで成長していくことは、日々のディボーションなしにはあり得ない。
あなたは、主との素晴らしい充実した静思の時(ディボーション)を経験したいだろうか。もしそうであれば、ぜひこのコラムをこのまま読み進めてほしい。
ディボーション
ではまず、「ディボーション(devotion)」とは何かを定義しよう。権威ある英語辞典として知られる『ウェブスター辞典』(1828年)は、ディボーションについて次のように説明している。
A solemn attention to the Supreme Being in worship; a yielding of the heart and affections to God, with reverence, faith and piety, in religious duties, particularly in prayer and meditation; devoutness.
(礼拝における大いなる存在への厳粛な関心。特に、祈りや瞑想などの宗教的務めにおける、畏敬の念、信仰、敬虔を伴った、神に対する心の明け渡しと愛情。敬虔さ)
この定義に従えば、私たちの静思の時(ディボーション)は、神に対する集中した時間、神を慕い求める時間、神に完全に明け渡す時間であり、それはいつも継続的に行われなければならないものであることが分かる。私たちが真に神と麗しい関係を持つことを望むなら、私たちは神を追求するために真剣かつ執拗でなければならない。
神との素晴らしい静思の時を持つためのヒント
ディボーションが何であるかが分かったところで、次に、神と素晴らしい時間を持つためのヒントを幾つか紹介しよう。
1. 気を散らすものを脇に置き、集中する
前述のように、ディボーションは神に集中することが必要だ。私たちは、神を求めようとする思いを妨げるものがあれば、それらすべて捨て去る必要がある。イエスは、マタイによる福音書16章24節でこう語っている。
わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ:16:24)
実際的なヒントとして、ディボーションをするときは、スマートフォンやタブレットなど、すべてのデジタル機器をオフにして、注意をそらすものをすべて遠ざけてみよう。私たちの想像力をかき立てるようなものや、私たちの心の中の思考さえも、私たちの気を散らすことがある。このように環境と心を整えることは、祈りと聖書を読むことを通して、神にだけ集中するよう自分自身を訓練することに役に立つ。
2. 自分の思い煩いと願いを沈黙させ、神に語っていただく
聖書は私たちに、神の元に行って重荷を下ろすよう教えているが、私たちは自分の魂を沈黙させ、神に優先権を渡す必要がある。神に語っていただくためにも、私たちは真剣に、利己心や自分中心の願いをしばらくの間、脇に置くことを学ぶ必要があるのだ。
私たちの多くは、神が望んでいるものは何かを求めるのではなく、私たちが望むものを神に求めることに祈りの時間を使ってしまう。また、たとえ祈りの中で神が望まれることを尋ね求めたとしても、自分が望んでいることに基づいて解釈する傾向がある。そして、それが私たちの望まないものであれば、それを受け入れようとしない。これは間違ったことだ。
もし神を楽しみたいのであれば、私たちは自分自身のことではなく、神でいっぱいになる必要がある。私たちの心の中が、思い煩いや自分に関するさまざまなことでいっぱいになっているなら、そこには神を受け入れるスペースはないだろう。イエスは、ヨハネによる福音書15章7、8節でこう述べた。
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。(ヨハネ15:7、8)
3. 他のどんなものよりも、神を楽しむ
最後のヒントは非常に実用的だ。ディボーションは、神に注意を払い、神に明け渡し、神を敬うためのものだ。これは人間中心ではなく、神中心となることである。私たちの目的は、どんなものにも勝って神を喜ばせることにある。
イエスはヨハネによる福音書14章23節で次のように話している。
わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。(ヨハネ14:23)