神は常に私たちの内で働いておられ、それ故、神は私たちの内にキリストの似姿を生み出すことができる、と聖書は教えている。この神の働きによって、私たちの性質が、キリストの性質に形づくられていくのである。キリストは、父なる神の本質の完全な現れだ。そして、父なる神とは、愛、恵み、慈悲に満ちている存在だ。
キリストの性質に形づくられるという過程には、神に敵対する態度を取り除き、キリストのような態度に置き換えることが含まれる。では、神が私たちから取り除こうとしておられる態度とは何だろうか。ここでは、私たちが取り除くべき聖書的ではない3つの態度を見ていこう。
1. いじめ(嫌がらせ)
あなたは時に、クリスチャンがいじめの加害者になることを知っているだろうか。また、さまざまな理由で、信仰の仲間を憎んでいるクリスチャンもいる。聖書にはそうした姿を戒める御言葉が幾つも書かれている。
・虐待的な指導者は、群れ(信徒)に対して権威を振りかざす。
ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。(ペトロ一5:3)
・圧政的な信者は、仲間の信者の良いものや良い機会を奪う。
お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。(エゼキエル34:18)
・不安定な指導者は、新しく、成長している他の指導者が自分に取って代わり、指導し、優れた立場を得ることを許さない。
女たちは楽を奏し、歌い交わした。『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。』 サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。『ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。』 この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。(サムエル一18:7〜9)
これらの態度は非常に利己的で、肉の思いによるものだ。私たちは、敵であるサタン以外に、絶対に誰のこともいじめたり、嫌がらせをしたりしてはいけない。
2. 被害者を演じる
この態度は、クリスチャンであれば即やめなければならない。キリストを受けた私たちは、もう弱い人ではなく、正しい選択をするために力があるのだ(テモテ二1:7)。悲しいことに、人々から同情と好意を得たいがために、常に被害者を演じる人たちが存在する。
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(テモテ二1:7)
一部のクリスチャンは、自分の犯した間違いや、罪に対する責任から逃れるために「哀れな話」をする。このような人々は、自分の間違いを最小限に抑えつつ、いかに自分が不当な悪い影響を受けたかを強調する話をする。
アダムとエバは、創世記3章で描かれている堕落の後に、この「被害者を演じること」を行った。アダムとエバが、神から食べてはならないと命じられていた善悪の知識の木から実を取って食べた後、神は彼らと話した。2人は罪を犯したという事実を認める代わりに、被害者を演じることにしたのだ。
アダムは神に、エバが食べるように言ったと告げた。一方、エバは、ヘビが誘惑したので食べたと告げた。彼らは、自分たちが被害者であるかのように演じることで責任を逃れられると思ったが、罪をすでに犯してしまっていたので、責任から逃れることは不可能となった。
私たちは、自分が犯してしまった間違いのために、他人を非難してはならないのだ。
3. キリスト教用語で人を操作する
最後に、私たちの多くが持っている迷惑な態度を紹介する。あらゆる種類の宗教的、聖書的な言葉や用語を口にしながら、キリストの教えに反して生きているクリスチャンをあなたは知っているだろうか。
そのようなクリスチャンは「ハレルヤ」「主を賛美します」などの言葉を好んで用いるが、神の言葉とはまったく逆の生活を続けている(ヤコブ1:26、27)。彼らはイエスの名を使って、神の計画でなく、自分の計画を推し進めていくことが大好きだ(出エジプト記20:7)。
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。(ヤコブ1:26、27)
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。(出エジプト記20:7)
そのような人々はおそらく「イエス・キリスト=欲しいものを得られるギフトカード」のような考えを持って生きている。彼らは、金銭的なものであるかないかにかかわらず、神の名を使って支持を得るのが大好きである。彼らは、もし自分がイエスのことに言及すれば、自動的に他の人々から気に入られるなどと信じている。
私たちは、私利私欲を満たす目的のために、神の言葉や御言葉を使うべきではない。