前回の続きです。神学校のS牧師が言う「御座に着座されたイエス様が、新約聖書でただ一度立たれたことが記されている」とは、どこなのか。
有名な聖書箇所ですが、ステパノが殉教するときに語った言葉「人の子が神の右に立っておられるのが見えます」(使徒7:56)ここだけです。
他の聖書箇所は「椅子(座)に座っている」という表現です。イエス様はなぜこの時「椅子から立った」のか。
おそらくイエス様は、ステパノが石打の刑で今にも死にそうなときに、思わず椅子から立ち上がってしまったのではないだろうか。まるで子どもが運動会で走っていたら転んでしまい、親が思わず立ち上がり、子どもに手を差し出すような、そんな感じです。
とS牧師に教えてもらいました。
う~ん、なるほど。「字」だけを読むのではなく、その「場面」を思い描きながら読むと、聖書の世界が深まりますね。
そういえば、妻が好きなヒルソングの歌の歌詞に、
「主の御座から 御手がのばされ~♪
主の愛と強さが 体を包み込んでく~♪」
とあるけど、この話を聞いた後に聞くと、賛美の歌詞が一段と心に響きますね。
私たちがつらいとき、悲しいとき、苦しいとき、主は御座から思わず手を差し出して、私たちを包み込んでくれる。そんな感じがしませんか。
<聖書のみことば>
「しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます』」(使徒7:55〜56)
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箕輪勇気(みのわ・ゆうき)
1981年名古屋市生まれ。2002年受洗。05年から4年間、神学校(信徒向けコース)で学び、現在は社会人として働きながら妻と共に一般信徒として教会に仕える。2児の父。