死後の裁きなどはないと思う。脅して信心に入れようとしているのだ。せいぜい好きなように生きればいい。もし死後に裁きがあれば、潔く受けるまでだ。
筆者は、どうあろうとも、脅したくはない。だから、地獄についてあまり語りません。ただし、神の真剣さ、人生の厳粛さ、それ故、人生が裁きで精算されることだけはきちんと告げておかなければなりません。
また、筆者は言わないが、聖書は語っています。“愛” を勧め、“赦(ゆる)し” を語るイエス・キリストご自身の口から出た言葉として、“地獄” “火の炉” “刑罰” などが福音書の中で再三記述されていますので、これを紹介しておくのが責任だと思います。
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナ(地獄)に投げ込まれるよりは、よいからです。(マタイ5:29)
もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイ5:30)
からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナ(地獄)に投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。(ルカ12:4、5)
つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ13:41、42)
こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。(マタイ25:46)
これらはイエス・キリストの言葉です。ほかにも、聖書は告げています。
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3:36)
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・(ヘブル9:27)
ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。(ヘブル10:26、27)
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙20:15)
その時になって「知らなかった」「聞かされてなかった」という言い逃れは許したくないようです。
神は人間に自由意思を与えておられるので、好きなことをして好きなようにして死ぬのを止めることはできません。しかし、その結果の裁き、裁きによって処せられる刑は(潔く受ける、とは言っても)決して生易しいものではありません。
そのありさまを霊の眼で見たダンテが『神曲 地獄篇』の中で描写しております。地獄の門の額に、こう書かれていました。
ここを過ぎて憂愁の都へ ここを過ぎて永劫の憂苦へ
ここを過ぎて亡滅の民のうちへ・・・
一切の希望を棄てよ 汝らここに入る者
この地獄門から始まる凄惨な模様を、一度お読みになってみてはどうでしょうか。
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