ワーナー・ブラザース映画元製作室長の小川政弘氏(77)と、本紙に多くの映画評を寄稿している青木保憲牧師(50)による対談もいよいよ最終回。第4回は、2人の考える映画伝道の在り方や、ハリウッド映画とキリスト教との関係について語っていただいた。
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映画伝道で意識すべきこと
――そろそろこの対談の中心的な部分に入っていきます。お二人が映画伝道を考えるとき、意識している点、または意識すべきと考えている点は何でしょうか。
小川:まず、これを申し上げておきたいのですが、青木先生がクリスチャントゥデイに多くの映画評を寄稿されていますが、あの視点に私は大変共感しております。何といっても最新の映画を取り上げて、「ここにも聖書的なものが」「ここにも福音的な教えが根幹に」という切り口は、本当に映画伝道をしていく上で必要なメッセージになっていると思います。私は先生の映画評のファンです! ぜひこれからも継続していただきたい。
青木:ありがとうございます。過分なお褒めの言葉を頂き、恐縮です。
小川:私が映画伝道に関して意識していることは、あまりキリスト教や福音をこれみよがしに目立たせないということです。そもそも映画という媒体自体が一般的なものですから、福音が初めから最後まで燦然(さんぜん)と輝き続けるような作品ではなく、むしろ何となく提示されていたり、多少暗示されたりしているな、程度の方が一般の方には伝わりやすいし、能動的に考えてもらえると思います。
あと、いろんな問題が映画の中だけで解決しなくてもいいと思います。「こんなことになっちゃった」と観る者に思わせることで、その先は観終わった後に解説を加える余地が生まれます。
青木:私も同じことを考えていました。小川さんがおっしゃるように、人間の「罪のリアリティー」をきれいごとで収めてしまう作品は映画伝道には向いていないと思います。「立派な人が立派な行いをして、皆が幸せになりました」というような話は、観ていて面白くないし、そこから何も語ることができない。そうではなくて、むしろ人の性(さが)というか業というか、一生懸命やったのに結果がまったく裏腹なものになってしまい、茫然(ぼうぜん)と立ち尽くすラスト、というような話が面白いと思います。具体的にはデビッド・フィンチャー監督の「セブン」(1995年)はこのパターンです。
観客が観ているうちに、いつしかそのリアリティーに取り込まれてしまって、劇中の人物に感情移入してしまうような作品が面白いと思います。これは洋画ではありませんが、熊井啓監督の「ひかりごけ」(92年)など、この効果が秀逸です。少し難しくて、多少は退屈ですが、ラスト30分の畳みかけるような罪のリアリティー、そしてラストの大どんでん返しは、いつ見てもうならされます。
――今後の映画伝道に期待することはありますか。
小川:劇映画ですから、当然、登場人物が何らかの葛藤にぶつかります。そして人間のドラマが生まれます。彼らの必死の行状の果てに、救いの要素がほんのりと垣間見える、そんな作品がいいですね。「エデンの東」(55年)のような。やはり私は、罪に対する赦(ゆる)しが映画の中には必要だと思います。それが前面に出ていなくてもいい。しかし映画を観終わった後、解説や話し合うときに、その赦しの必要性を実感できるような作品こそ、映画伝道の一つの柱となるでしょう。今後もそういった作品を取り上げて、映画伝道を継続していきたいです。
あと一つは、人間の善なる部分に目を留めた作品もいいですね。聖書も語っているように、アダムが罪を犯す前は、人間は神の像(かたち)を頂いた本来善なる存在です。その善性を高らかにうたい上げることは、単なる人間賛歌とはならず、神が人間をご覧になるその視点を私たちに与えてくれます。
「人生は本来、楽しく喜びに満ちたものである」。その究極が愛という形でしょう。確かにいろんな苦労もあるが、「生きるのは素晴らしいな」と思わせる。そういう視点から映画を紹介して、観客に勇気をもらってもらいたいと思います。例えば日本映画では、山田洋次監督のような作品です。
――青木先生はいかがですか。
青木:私は映画伝道で選ばれる映画は、絶対に「面白いもの」でなければならないと思います。例えば10代から20代の若者たちが「観たい」と思えるような作品をいかにチョイスするかが課題です。しかしそれは、何でも最新の映画であればいいというわけではありません。今まで私たちが題材として取り上げた過去の作品も、プレゼンの仕方によっては面白さを感じてもらえると思います。
言い換えるなら、一見「聖書的ではない」からといって、観もしないで判断することは避けるべきだと思います。そのことを訴える意味でも、私のクリスチャントゥデイでの映画評はこれからも「え?こんな作品を?」という路線をあえて狙っていきたいと思っています。
あとは、日本映画を聖書やキリスト教的視点でひもとく、というのもやってみたいです。日本で活躍している映画監督は、当然ハリウッド映画の洗礼を受けています。彼らが意識するしないにかかわらず、ハリウッド的な、言い換えるとキリスト教的世界観に基づいたストーリーテリングが取り込まれているはずです。そして本人が意識せずスクリーンに表出させてしまったものの中に、キリスト教的断片が残存しているということも否定できません。
日本映画は、日本人の心にフィットしやすいものです。その文脈と世界観を用いながら、キリスト教的断片を探したり、物語を聖書やキリスト教的視点で解釈し直したりするとき、実は牧師やクリスチャンだからこそ見いだせる新しい光を、その作品に照射することになるのではないでしょうか。
――お二人とも長い時間、ありがとうございました。
小川:ありがとうございました。青木先生のように、私の仕事をそこまで評価くださる方とお出会いできたことは、本当に感謝です。
青木:こちらこそ。私の青春は、そして映画人生は、小川さんの監修した字幕で出来上がっていることがあらためて分かりました。心から感動しています。ありがとうございました。(終わり)