話が終わると、牧師は賛美歌を選び、「この歌を賛美している間に、信じる人は手を上げてください」と招きました。心に戦いがありました。きれいな心になりたい、屋久島の雪よりもと思いつつ、自分の人生は自分で生きなければ意味がないという葛藤がありました。
賛美歌が終わりまで歌われ、手を上げるチャンスを失してしまいました。「もう一度1番だけ歌いますので、手を上げてください」との優しい牧師の声が響きました。
十字架の血に 清めぬれば
来よとの御声を 我(われ)は聞けり
主よ我は 今ぞ行く
十字架の血にて 清め給え (讃美歌515番)
思い切って手を上げました。「イエス様、私の心にお迎えします。お入りください。信じます。アーメン」。その日から、イエス・キリストはいつも私と共におられます。
主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」(ヘブル13:5〜6)
その日からすでに60年、クリスチャンとして歩んでいます。しかも「信じます」と言ったその日の午後に、教会の近くの海岸でバプテスマを受けたのです。
「あなたは天地の造り主、生ける真の神のみを信じますか」
「アーメン」
「あなたは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖(あがな)いによって救われていることを確信しますか」
「アーメン」
「あなたは、自分の最善を尽くして、教会の礼拝を守り、教会員としての務めを果たし、証しの生活をすることを願いますか」
「アーメン」
「アーメン」との答えと共に、種子島の海に今までのすべての生涯が葬り去られました。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2コリント5:17)の聖書の約束の通りでした。
バプテスマの誓約で、「教会員の務めを果たし、証しの生活をすることを願いますか」と聞かれて、「アーメン」と答えました。しかし、バプテスマを受けたことは誰にも知られないように黙っていようと考え、水から上がってきました。
翌日、学校へ行くと男子生徒にぐるっと取り巻かれました。一番大きい生徒がにやにやしながら、目の前にひざまずき、「アーメン、アーメン」と、冷やかし言葉を言い、みんなで声をそろえてばかにしました。
バプテスマの現場を見られてしまったのです。しかし、真っ赤になりながら、「そうだ。アーメンになったんだ。みんなも一緒に教会に行こう」と、蚊の鳴くような声で答えました。田舎の学校ですから、うわさは広まり、みんなにクリスチャンであることが知られてしまいました。
ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイ10:32〜33)
神様のなさることは皆、その時にかなって美しいことを体験しました。その貧しい証しによって、何人かの友達が教会に行くようになったのです。(続く)
※ 本コラムは、小冊子「雪よりも白く」から転載・編集したものです。クリスチャントゥデイをご覧になり小冊子をご希望される方には、1人1冊を無料でプレゼントします。申し込みは、榮義之(メール:[email protected])まで。
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