アジア・パシフィック・ナザレン神学大学院は、牧師、宣教師、教師などを養成する大学院です。そもそもなぜ私がそのような学校で教えるようになったのか、まずその経緯をお話ししたいと思います。
私は高知市で子ども時代・青年時代を過ごしました。新堀小学校から高知学園中学・高校へと進みました。学園時代にテニスと英語に興味を持ち、テニスを通して随分と健康になり、精神力も養っていただいたように思います。
英語クラブにも入り、海外にペンフレンドを見つけたり、良き教師との出会いもあって英語弁論大会に出させてもらったりしました。また当時カトリック江の口教会で行われていた「杉の木会」という英語教室に参加したり、外国人宣教師の自宅で開かれていたバイブルクラスなどにも積極的に参加しました。高校3年生の時には、高松市の香川大学で行われた中国・四国英語弁論大会で、後に妻となる女性とめぐり合いました。
その後、上智大学の英文科に進学し、カフェテリアで一夏アルバイトをしていたときに、日本文化を学びに来られていた米国人の教授と出会いました。1968年、大学3年生の時に、その人の招きでアイダホ州にある大学に留学することとなったのです。その大学がキリスト教系の大学で、聖書のクラスやチャペルの出席が必修であるということは認識外でした。しかし、数カ月がたったある日、私はキリスト教で言う「回心」を経験するに至りました。それが転機となってキリスト教に関心を持つようになり、聖書の勉強を本格的に始めることとなりました。
後に私の妻となった女性も同じ大学に留学することとなり、大学卒業と同時に結婚をいたしました。この時には大学はじめ教会全体の多大なお世話になりました。その後、さらに3年間ミズーリ州カンザスシティーにありますナザレン神学大学院で生涯の恩師との出会いを経験し、神学の勉強を続け、1973年、なつかしい高知に戻ってきました。
帰国後、私を育ててくれた高知市で教会を始めることを決意し、最初は近所の子どもたちを集めて、妻と2人で日曜学校や英語教室を開きました。その時から牧師として教会の形成に専念するとともに、ボストン大学で宗教社会学の博士課程を修了したこともあって、アジア・パシフィック・ナザレン神学大学院から嘱託講師として招かれるようになりました。
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