誰もが、悪いことをすれば罰を受ける経験をしてきた。昔からある童話の「舌切り雀」や「はなさか爺さん」、「さるかに合戦」に「おおかみ少年」なども、悪いことをすれば嫌われ、罰を受ける話であった。学校に行っても、頑張れば誉められ、悪いことをすれば罰を受けた。社会に出ても同じであった。どこもかしこも賞罰で満ち、その中で人は育ち暮らしてきた。ゆえに、誰もが「罪人には罰」という眼鏡を掛けるようになり、それで物事を理解するようになった。
そのため私たちは、神も人の罪を見て罰を与える方だと思ってしまう。罪を犯し続けるなら救いは取り消され、行いが良くないと愛されないと思ってしまう。何か災いに遭うと、罪に対する罰だと思ってしまう。本当はそうではないのに、そのように思ってしまうのである。
神はそうした誤解から人を救い、神と正しい関係が築けるようにと、ご自分の思いを昔から明らかにしてこられた。神は「永遠の契約」を立て、自らの思いは「罪人にはあわれみ」であることを明らかにし、人と関わってこられた。しかし、人はそのことを知らない。知らないから、いまだに「罪人には罰」という眼鏡で神を見てしまい、旧約時代の神は怖い神で、新約時代の神は優しい神だと勝手に思い込む。父なる神は怖い神で、イエス・キリストは愛に満ちた神だとしてしまう。
そこで今回のコラムは、神が立てられた「永遠の契約」を見てみることにする。といっても、「永遠の契約」は何度も語られ、その度に肉付けされてきた。初め神は、ノアに語られた。それが「永遠の契約」の土台となり、次にアブラハムに語られ、それが「永遠の契約」の骨組みとなった。その後は、そこに肉付けがなされていく。それゆえ、「永遠の契約」を見るといっても、そう簡単ではない。見ていくには手順を踏む必要がある。
初めに「永遠の契約」に至った経緯を調べ、契約の土台と骨組みの意味と特徴を正確に把握する。次に、その契約が肉付けされていく様子を追っていく。そうすれば、今も有効な「永遠の契約」の全容がつかめる。では、この手順で話を進めていこう。なお、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。
【永遠の契約を立てる】
(1)契約に至った経緯
「永遠の契約」は、初めノアに語られる。その内容を一言で言うなら、「滅ぼさない」という約束であった。これが土台となり、その後の肉付けが行われていく。ということは、「滅ぼさない」の意味を正確に把握することが、「永遠の契約」を理解する上で最も重要になる。そこで、「永遠の契約」に至った経緯から見ていくことにしよう。そうすれば、「滅ぼさない」に込められた神の思いが分かる。その経緯は、神が人を造られたときから始まる。
神は人をご自分に似せて造られ、神と人とが「一つ思い」の関係になるようにされた。「私たちはキリストのからだの部分だからです」(エペソ5:30)。そのため、人は「神と異なる思い」を抱きようがなかった。ところが、そこに悪魔が登場する。悪魔は蛇を使って人を欺き、「神と異なる思い」を人の心に抱かせた。「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」(2コリント11:3)。そして、食べてはいけないと言われていた実を食べさせた。人は欺かれ、罪を犯したのである。
食べる罪を犯すとは、実に「神と異なる思い」を抱くことであった。だが、「神と異なる思い」を抱けばどうなるだろう。当然、神との間にあった「一つ思い」の関係は崩壊し、人は神との結びつきを失ってしまう。それを「死ぬ」というが、罪を犯したことで人の中に「死」が入り込んだのである。つまり「死」は、神からの罰ではなく、罪(神と異なる思い)がもたらす必然であった。ゆえに神は、食べたなら、すなわち「神と異なる思い」を抱いたなら、必ず死ぬと言われていた。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:17)
神との結びつきを失う「死」が入り込むと、人は神に愛されている自分が認識できなくなる。同時に、人は神の部分として造られていたので生きることもできなくなり、土に帰る体となる。実際そうなったので、神は人に、「あなたは土に帰る」(創世記3:19)と言われた。
このことは、人を「不安」にさせた。それで人は、見える安心を求めるようになった。少しでも愛される自分を、少しでも安全に長く生きられる環境を求めるようになった。そのせいで、誰が愛されるか、誰が多くの富を手にできるかをめぐって争うようになり、これが罪の行為へと発展した。このように、アダムの罪によって「死」が入り込み、その結果、人は罪を犯すようになったのである。
それゆえ、ちょうど一人の人を通して罪がこの世に入り、罪を通して死が入り、まさしくそのように、全ての人たちに死が広がった。その結果、全ての人が罪を犯すようになった。(ローマ5:12、私訳)
まことに人の罪は、「死のとげ」であった。「死のとげは罪であり」(1コリント15:56)。ここで重要な点は、その「死」は悪魔の欺きによったということだ。罪を犯す者は、悪魔から出たということだ。「罪を犯している者は、悪魔から出た者です」(1ヨハネ3:8)。
こうして人は罪を犯すようになり、例えばアダムとエバの子は、誰が愛されるかをめぐって競争をし、長男カインは弟アベルを殺した。その後も、誰もが「死」による「不安」のせいで、生まれながらに悪(見える安心)を思い計り、罪に走った。神が差し伸べる救いも拒否した。その中、ノアの家族だけは救いを受け取り、神と共に生きた。しかし、神と共に生きる者の数は圧倒的に少なく、いつ彼らも、かつてのアベルのように殺されてしまうか分からない状況であった。もしそうなれば、神の言葉は完全に絶えてしまう。
そこで神は、大洪水で神に反逆する者を一掃し、ノアの家族を助け出す決断をされた。しかし、それだと生き物たちも死ぬので、ノアに大きな箱舟を造らせ、彼らと生き物たちを助け出すことにされた。こうして、ノアの家族は命の危険から救い出された。そして神は、ご自分の胸のうちを明かされた。
【主】は、そのなだめのかおりをかがれ、【主】は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。(創世記8:21)
神は、「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい」と言われた。これは、「罪人には罰」ではなく、「罪人にはあわれみ」をもって接するということである。なぜそうするのか、その理由を、「人の心の思い計ることは、初めから悪である」と言われた。これは先述した、悪魔の仕業によって「死」が入り込み、その結果、人は生まれながらに罪を犯すようになったことを言っている。つまり、人は悪魔の仕業で罪人になったので、罪ゆえに「罰」を与えるようなことは決してしないということだ。
以上が契約に至るまでの経緯であり、神はこのご自分の胸のうちを「永遠の契約」とし、このあとノアに語られる。では、その内容を見てみよう。
(2)ノアに語る
神がノアに語った「永遠の契約」は、こうであった。
わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。(創世記9:11)
神はこれを、人に対してだけでなく、すべての生き物に対しても「永遠の契約」にすると言われた。「虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう」(創世記9:16)。その内容は、今後二度と災いによって打つことはしないというものである。それだけ、大洪水は緊急を要した事態であって、例外的な措置であったということを物語っている。いずれにせよ、罪ゆえに「罰」を与えることは決してないということを「永遠の契約」とされた。
神がこのようなことを語られたのは、今回の処置を人が誤解しないようにするためであった。というのも、実際のところは、神は誰も滅ぼしてなどいなかったからである。そのことを少し説明しよう。
人は悪魔の仕業で「死」が入り込んで以来、すでに死んでいた。「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように」(1コリント15:22)。人は神との結びつきを失い、すでに滅び行く体となっていた。ゆえに、神は人を滅ぼしてなどいない。そうではなく、真実はこうであった。昔も今も変わらないキリストが彼らを救おうと、霊において、同じ霊である彼らの「魂」に御言葉を語られていたのである。
その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。(1ペテロ3:19、20)
しかし、彼らはキリストの助けを拒んだので、自らが望んだようになった。それが真実であって、神は誰も滅ぼしてなどいない。彼らを滅ぼしたのは悪魔であって、神は救おうとされたのである(参照:福音の回復(38))。
そうであっても、人の目には神が人を滅ぼしたようにしか映らない。しかも、人は入り込んだ「死」のせいで、すでに「罪人には罰」という眼鏡を掛けていたので、それは罪に対する神の罰だと思ってしまう。それで神は、人が神の思いを取り違えることのないようにと、「永遠の契約」を立てられたのである。
このように、神の人への思いは「罪人には罰」ではなく、「罪人にはあわれみ」であり、それはアダムが罪を犯して以来、何ら変わらない。そのことは、アダムとエバが悪魔の仕業で罪を犯し「不安」のただ中にあったとき、神は彼らのために着物を作り着せられたことからも分かる。「神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創世記3:21)。これは、罪を贖(あがな)うキリストの十字架を示した型にほかならない。そうした神の変わらない思いを、すなわち「罪人にはあわれみ」を、「滅ぼさない」という「永遠の契約」を立てることで明らかにされたのである。
以上が「滅ぼさない」の意味であるから、それは「罪人にはあわれみ」であり、今も有効な契約であるから、イエスは次のように言われた。
まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦(ゆる)していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。(マルコ3:28)
また、次のようにも言われた。
だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。(ヨハネ12:47)
こうしたイエスの言葉からも、ノアに語られた「永遠の契約」が土台であることが分かる。その後、この土台に柱が立てられ、「永遠の契約」の骨組みが完成する。それはアブラハムを通してなされた。続けてそれを見てみよう。
(3)アブラハムに語る
神はアブラハムに、「永遠の契約」を立てられた。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。(創世記17:7)
契約の柱は二つあり、一つはこうであった。
わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。(創世記17:7)
これは、神が人との関係を回復してくださるということだ。私たちは生まれながらに神との関係を失った「死人」になり、生まれながらに悪を計る「罪人」となっていたから、まずは神との関係を回復させ、生きる者とする必要があった。それゆえ罪人をあわれむと宣言された神は、「死人」が神の声を聞き、神と共に生きられるようにするという内容を、契約の柱とされた。「あなたの後の子孫の神となる」とはそういう意味であり、これを「救いの恵み」という。それでイエスは、この契約にのっとり次のように言われた。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。(ヨハネ5:25)
契約の柱はもう一つあり、それはこうであった。
わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。(創世記17:8)
「カナンの全土」とは実際の場所を指すと同時に、そこには霊的な意味があった。それは「神の安息」である。神は次に、人が「死」によって「不安」を抱き、罪を犯すようになってしまったので、「不安」(罪)を取り除き、「神の安息」に連れ行くと言われたのである。神はこれを、もう一つの契約の柱とされた。この約束は今も有効なので、新約聖書はこう教えている。
こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。(ヘブル4:1)
「神の安息」に導くことは、罪を無条件で赦すことで達成される。なぜなら、多くの罪が赦されれば多く神を愛するようになり、神への信頼が増し加わるからだ。「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)。この神への信頼が、そのまま「神の安息」となる。それで、この契約の柱を「赦しの恵み」という。
こうして、神の「滅ぼさない」という約束が土台となり、そこに「救いの恵み」の柱と「赦しの恵み」の柱が立てられ、「永遠の契約」の骨組みが出来上がった。
骨組みが完成したので、神は今度、そこに肉付けをされていく。それを見ていく前に、「永遠の契約」の特徴を整理しておこう。
(4)契約の特徴Ⅰ
神はノアに対し、永遠の契約を「立てる」と言い、「わたしは、わたしの契約をあなたがたとの間に立てる」(創世記9:11、新改訳2017)、アブラハムに対しても「立てる」と言われた。「代々にわたる永遠の契約として立てる」(創世記17:7)。「立てる」とは、神の側が自らに課した契約であることを意味する。
普通、「契約」は双方の約束事で成り立つが、この場合の「契約」は、双方が交わした約束事ではない。神が自らに課す形になっていて、人の側に課せられた義務は何もない。それはつまり、神の思いは、人の行いには一切左右されないということを意味する。
すると、アブラハムの契約の直後に神が人に課した「割礼の儀式」は、契約の条件ではないのかと思うだろう。しかし、「割礼の儀式」は「永遠の契約」に必要な義務ではなく、あくまでも神の立てた「永遠の契約」を忘れないようにさせるためのものであり、それは契約の「しるし」であった。
あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。(創世記17:11)
「割礼の儀式」はちょうど、神がノアに「永遠の契約」を立てた際、「虹」を契約の「しるし」としたのと同じである。「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる」(創世記9:13)。しるしを立てる必要があるほど、この契約は重要だということを意味する。なぜなら、この契約は人に何ら条件を求めるものではないからだ。なぜそうなのか、そのわけはこうであった。
先述したように、人は神との結びつきを失った「死」の中にあり、生きているように見えても神の目には死んでいた。そのため、神が人に善を要求したところで、行える者は一人もいなかった。「善を行う人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:12)。それで神は、人に何の条件も求めなかった。ということは、神が人を引き寄せ「永遠のいのち」を与えたなら、その後に人が罪を犯そうとも、滅ぼされることはないということだ。これが「永遠の契約」の特徴となるので、イエスは次のように言われた。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ヨハネ10:28)
このように、人を救い「神の安息」に導くという「永遠の契約」は、人に条件を求めないという特徴がある。ともすると、人は罪を犯す自分を見て神は怒り、救いが取り消されるのではと思ってしまうが、それは取り越し苦労でしかない。
「永遠の契約」には、見落としてはならない特徴がもう一つある。
(5)契約の特徴Ⅱ
この契約はノアに語られアブラハムに語られたが、それは「人類」に対して語られた。なぜなら、人はすべてノアにつながっていて、ノアが人類全体であるからだ。人はみな神の「いのち」で造られ、一つにつながっているからそうなる。従って、これは特定の民族に語られた契約ではない。それで新約聖書は、アブラハムに語られた「永遠の契約」が適用される、「あなたの後のあなたの子孫」(創世記17:7、8)についてはこう教えている。
ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。(ガラテヤ3:7)
そう教える根拠を、次のように解説している。
ところで、約束(永遠の契約)は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。(ガラテヤ3:16)※( )は筆者が意味を補足
「永遠の契約」が適用される「子孫」とはキリストのことであり、それゆえキリストを信じる者たちがアブラハムの子孫だという。神はその後も「永遠の契約」に肉付けをされていくが、それはすべて人類に立てられた契約であった。
ともすると、これはイスラエルの民に語られた神の契約であって、それ以外の民族には関係がないと思われがちだが、それは誤解である。ともすると、「イスラエルの民は神から契約を受けた特別な人たちだ」と思われてしまいがちだが、それは大きな誤解である。そもそも誰かを特別とすることは区別であり、区別は裁く行為にほかならない。イエスが繰り返し言われた「裁いてはならない」とは、「区別してはならない」という意味であり、誰かを特別だと思うことはイエスの命令に違反している(参照:福音の回復(62))。
このように、「永遠の契約」の特徴の二番目は、これは人類全体に立てられた契約だということだ。つまり、神の目には人はみなつながっているのであり、そこには何ら区別などない。ゆえに、神が預言者に語られた言葉は、人類全体にも語られた「神の言葉」となり、聖書になった。
では、「滅ぼさない」という土台に、「救いの恵み」と「赦しの恵み」という骨組みを完成させた神は、その後「永遠の契約」にどのような肉付けをされていくのか、続けて見ていこう。
【永遠の契約を肉付け】
(1)律法の契約
神はアブラハムに「永遠の契約」を語られた後、モーセを通して「律法」を人に負わせた。神が示した「律法」に従うなら祝福し、従わなければ罰するという「律法の契約」を結ばせた(出エジプト19:3~6、20:1~17など)。さらにヨシュアを通しても、エズラを通しても、神は人のなすべき「律法」を細かく定め、「律法の契約」を結ばせた(ヨシュア1:1~8、24:25、ネヘミヤ10:29)。
すると、ここに疑問が湧いてくる。神は一方的に「永遠の契約」を立てると言い、人には何も要求しなかったのに、なぜ今度は「律法の契約」を結ばせたのかと。神はなぜ「律法」を守れば祝福し、守らなければ罰するという契約を結ばせたのかという疑問が湧いてくる。その理由はこうであった。
神が立てた「永遠の契約」の骨組みは、人を救い、そして罪を赦し「神の安息」に導くというものであった。しかし、いくら神がそのことを望まれたとしても、そこに一つの障害があった。それは人の「意志」である。神は人に「意志」を与えたので、神がいくら「永遠の契約」に基づき人の罪を赦そうとしても、人の「意志」がそれを拒めばお終いであった。それはちょうど、病人が治療を拒めば、医者は治療できないのと同じである。
そこで神は、人に「律法」を与え、それを守り行えば祝福するという契約を結ばせた。しかし、ここに神の仕掛けがあった。その「律法」が示す行いは、とても人の力ではなし得ないのである。「律法」を行うことで、かえって罪の意識が生じる仕掛けになっていた。
なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3:20)
つまり、「律法」を頑張れば頑張るだけ罪の意識が生じ、人は追い込まれていった。そうなると、人の「意志」は耐えられなくなり、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と叫ぶ。これで神は、人と合意の上で罪を治療でき、約束の「神の安息」に導くことができる。これが「律法の契約」を結ばせた意図であり、まことに律法を行えば祝福が得られるようになっていた。罪が赦されるキリストの恵みに、導かれるようになっていた。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。(ガラテヤ3:24)
このように、神は自らに課した約束を果たすために、「律法」の契約を結ばれた。神と人とが互いに義務を負う契約を結ばせることで、神が立てた「永遠の契約」を確かなものにしようとされた。そうした中、神は、骨組みの完成した「永遠の契約」への肉付けをされていく。それは最初、ダビデを通してなされた。
(2)ダビデに語る
神はダビデに「永遠の契約」を語り、ダビデはその内容を明かした。
神と共にあってわたしの家は確かに立つ。神は永遠の契約をわたしに賜る/すべてに整い、守られるべき契約を。わたしの救い、わたしの喜びを/すべて神は芽生えさせてくださる。(2サムエル23:5、新共同訳)
その内容は、「わたしの救い、わたしの喜びを/すべて神は芽生えさせてくださる」という、至って短い内容であった。だが、そこには深い意味があった。まず「わたしの救い」とは、死から贖い出され、神との関係が回復することであり、これは骨組みの一つ「救いの恵み」を指している。
そして「わたしの喜び」とは、神を慕い求め愛することである。なぜならダビデは、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(詩篇42:1)と述べているからだ。神を慕い求めるとは神を信頼するようになることであり、その信頼が「神の安息」となるので、これも骨組みの一つ「赦しの恵み」を指している。
そして、この二つの恵みを、「すべて神は芽生えさせてくださる」という。これは神が人を救い、神が人を「神の安息」に導くということであり、人には条件を求めないことを言っている。ここで重要なことは、あくまでも「永遠の契約」は、神が自らに課す契約であるということだ。それを、初めて明文化したのである。それゆえ、この契約では「立てる」という表現ではなく、より明確に、「賜る」という表現が使われた。「神は永遠の契約をわたしに賜る」。
このように、「永遠の契約」の骨組み、「救いの恵み」と「赦しの恵み」に、それは神がされるという肉付けがなされた。ゆえにイスラエルの民は、律法の行いを通して罪に気付き、動物のいけにえを通して罪が赦される「赦しの恵み」にあずかっていた。しかし、次第に罪に溺れていき、「赦しの恵み」を拒むようになった。
その中、せっかく築いた国家は北と南に分裂し(紀元前10世紀ごろ)、その後、北はアッシリアに滅ぼされる(前722年)。残った南も新バビロニアに征服され、住民の大部分がバビロニアに連れ去られ(バビロン捕囚)、南も滅亡する(前586年)。南の滅亡に至る最後の40年間を預言者として活躍した一人が、エレミヤである。次に神は、このエレミヤを通して「永遠の契約」に肉付けをされた。
(3)エレミヤに語る
エレミヤの頃の人々は、モーセとの契約で与えられた「律法」を、自らの義を証しする手段にしていた。「律法」によって罪に気付くのではなく、「律法」を守っているように見せることで自らの義を証しし、「永遠の契約」である「救い」と「神の安息」を手にしようとした。これを「律法主義」という。
彼らは明らかに「律法」を誤った目的で使っていた。誰であれ罪に気付き、神にあわれみを乞うなら義と認められ、「救い」と「神の安息」に導かれるというのが「永遠の契約」であったが、彼らは無償で義とされる恵みを「律法の行い」で獲得する報酬にしていた。
人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。(ローマ3:28)
こうした事情から、神は「永遠の契約」をより明確にする必要があった。そこで神はエレミヤに、アブラハムに示した「永遠の契約」と、モーセに示した「律法の契約」とを統合し、「新しい契約」を結ぶことを告げられたのである。
見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。(エレミヤ31:31)
神は「新しい契約」を結ぶことで、確かにモーセと結んだ「律法の契約」はあるが、それは以前の「永遠の契約」が無効になったわけではないことを教えようとされた。そして、その「新しい契約」の中身はこうであった。
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31:33)
神は、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」と言われた。これは、人の心には神が書き記した「良心」という「律法」があるという意味である。そして、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」とは、彼らは救いに導かれることを言っている。
つまり、神には人の心に書いた「律法」があるので、人はそれを通して罪に気付くこともでき、それにより神は人を救いに導けるというのである。それは、たとえ人が神から託された「律法」を誤った目的で使ったとしても、神は「永遠の契約」を遂行できることを示している。さらに「新しい契約」の話は続く。
そのようにして、人々はもはや、「【主】を知れ」と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。(エレミヤ31:34)
これはダビデに語った、「すべて神は芽生えさせてくださる」(2サムエル23:5、新共同訳)を言い換えている。「永遠の契約」は、人の行いにはまったく左右されないことを言い表している。さらに神は、「新しい契約」について続けて話された。
──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。(エレミヤ31:34)
これは、罪が問われることは決してないという意味だ。従って、いったん救われたなら救いが取り消されることはないのである。以上が「新しい契約」であり、ここに「永遠の契約」と「律法の契約」が一つになった。
このように、神は「永遠の契約」に肉付けをし、「新しい契約」とされた。その中で、人の罪を問わないと宣言された。というのも、この頃の人々は国が滅亡の危機の中にあったことで、自分たちは赦されない罪を犯し、神の怒りの中にいると思っていたからだ。それで神は、「罪人には罰」という思いなどまったくないことを明らかにされた。神はこの契約を、今度はエゼキエルを通して肉付けをされる。
(4)エゼキエルに語る
神はエゼキエルを通して、「新しい契約」に肉付けをされる(エゼキエル37:21~28)。その中で、次のような内容が語られた。
わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。(エゼキエル37:26、新共同訳)
神は、「彼らと平和の契約を結ぶ」と言われた。平和の契約を結ぶとは、「死人」が神の呼びかけに応答し、神との関係が回復する「救いの恵み」にあずかることを指す。そうなれば、「それは彼らとの永遠の契約となる」と言われた。これは、「救いの恵み」は永遠に保証されるという意味だ。つまり、神との関係が回復する救いにあずかったなら、救いが取り消されることは絶対に起きないのである。
さらに神は、「わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く」と言われた。これは、神は私たちのうちにご自分の住まいを設け、すなわち「神の神殿」を設け住まわれるという意味である。実際、神はそうされたので、新約聖書は、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(1コリント3:16)とつづっている。そして、さらに「永遠の契約」は続く。
わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エゼキエル37:27、新共同訳)
私たちが神の住まいとなったなら、私たちは神の民となるという。それはつまり、「救いの恵み」を受けたなら、神はその人の罪を取り除いていくので、その人は神を信頼するようになるという意味であり、「神の安息」に至らせる「赦しの恵み」に導かれることを指す。
この契約で重要なのは、神が人との関係を回復したなら、その人のうちに住まわれるということだ。しかも、それは永遠に、である。それは、人がどのような状態になろうとも、神はその人を愛し続けることを示している。神が言われる「罪人にはあわれみ」とは、単なる口先の話ではなく、神ご自身が永遠の生涯を人に掛けた話なのである。
そうであっても、人は「罪人には罰」という眼鏡の中で育ち暮らしていたために、そうした神の思いが理解できなかった。罪を犯せば罰せられ、神との関係が断ち切られるのではないかと恐れていた。そのため、やはり「律法の行い」によって神との関係を築こうとした。そこで今度は第二イザヤを通し、さらなる肉付けをされる。
第二イザヤとは、聞き慣れない人物かもしれない。しかし、これは今や一般的になっているので簡単に説明しよう。第二イザヤとは、紀元前6世紀にバビロン捕囚の地で活動した預言者であり、紀元前8世紀にエルサレムで活動した預言者イザヤとは区別される。ただ、その名が知られていないので、一般に「第二イザヤ」と呼ばれている。この理解は、19世紀のベルンハルト・ドゥーム以来、定説になった。さて、第二イザヤが記したとされるのは、その内容からイザヤ書40~55章といわれる。
ただし、彼は名を知られていないというだけであって、れっきとしたイザヤの弟子であった。イザヤには多くの弟子がいたが、その中でイザヤの後継者になった人物である(イザヤ8:16)。それゆえ、彼はイザヤの教えを受け継ぎ、彼が神から受けた啓示をイザヤ書として統合したと思われる。そうした意味では、イザヤ書は一人のイザヤによって書かれたともいえる。
前置きが長くなったが、この場合は誰が書いたかは重要ではない。重要なのは、この「神の言葉」をいつ神から託され、書いたかである。イザヤ書40~55章は、その内容から、明らかにエゼキエルよりもあとに託され、書かれている。その根拠は、エゼキエルに示された「永遠の契約」よりも、その中身がはるかに具体性を増しているからだ。では、具体性が増したその中身を見てみよう。
(5)第二イザヤに語る
神は第二イザヤに対し、次のように語られた。
わたし、【主】は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。(イザヤ42:6、7)
神はここに来て初めて、神の「永遠の契約」は、神が「あなた」と呼ぶ、一人の人を通して具現化されることを明かされた。さらに神は、その一人の人についてこう言われた。
恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。(イザヤ49:8)
神が「あなた」と呼ぶ人は、国を興すという。国を興すとは、「神の国」を到来させるということであり、私たちを死から助け出し、神との関係を回復することを意味する。これは「救いの恵み」のことを述べている。
さらに神が「あなた」と呼ぶ人は、この「救いの恵み」にあずかった者に、「荒れ果てたゆずりの地」を継がせるという。これは「カナンの地」に導くことを意味し、「赦しの恵み」のことを述べている。つまり、神が「あなた」と呼ぶ人は私たちを「救いの恵み」にあずからせ、「赦しの恵み」にあずからせ、「神の安息」に導いてくださると言われたのである。
神が「あなた」と呼ぶ人は、言うまでもなく「イエス」のことを指している。神はこの中で、「永遠の契約」を遂行するために、救い主が来られることを明らかにされたのである。さらに神は、イエスが契約を遂行するために十字架に架けられることも明かされた。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)
この十字架については、アダムが罪を犯した際、すでに神が語っておられた。
わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(創世記3:15)
「彼」とは「イエス」を指し、「おまえ」とは悪魔を指す。悪魔はイエスを十字架につけるが、イエスは悪魔を滅ぼすということを神は語られたのであった。すなわち「永遠の契約」は、実質アダムの時から語られていた。さらに神は、次のように言われた。
このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ【主】は仰せられる。(イザヤ54:9、10)
神はこの中で、これはノアを通して立てた「永遠の契約」に基づくものであり、決して怒らず、責めることはしないと誓われた。神の愛は何があろうとも変わらないことを明らかにし、神の契約は動かないと言われた。そして神は、次のように言われた。
耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。(イザヤ55:3、新改訳2017)
神はこれらを「永遠の契約」とし、それはダビデに語った「永遠の契約」に根差していると言われた。そして、続きでこう述べられた。
見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、【主】のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。(イザヤ55:4、5)
ここで神は、この契約はイスラエルの民に限定したものではなく、すべての民に語られたものであって、神はすべての人が救われるよう願っていることを明らかにされた。それまでの「永遠の契約」は、イスラエルの民に限定したかのような言い方をしていたが、ここに来て初めて、それはすべての民を指していたことを明らかにされたのである。
パウロは、この神の思いを受け、「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(ガラテヤ3:29)と述べ、「すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです」(ローマ9:8)と教えた。イエスも弟子たちに、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19、20)と命じられた。
このように、ノアに語られた「滅ぼさない」はまことの契約であり、そこにはキリストの十字架の贖いまでが含まれていた。そのことが、第二イザヤに語られた「永遠の契約」を通して明らかになった。そしていよいよ、救い主であるキリストがイエスとして来られ、「永遠の契約」を実行し、ご自身が「永遠の契約」の血となられる時を迎える。
(6)「永遠の契約」の血
イエスは「永遠の契約」を実行するために、約束どおり十字架に架かられた。それは人の罪の原因となっていた「死」を滅ぼすためであった。イエスはご自分が十字架で殺されることで「死」を滅ぼし、その証しによみがえり、いのちと不滅を明らかにされた。
キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(2テモテ1:10)
「死」を滅ぼすとは、死の力を持つ悪魔を滅ぼすことであり、「死の恐怖」のために一生涯、「不安」の奴隷になっていた人たちを解放しようとされた。
それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。(ヘブル2:14、15、新共同訳)
それは私たちが罪人であっても、私たちのために十字架に架かることで、神は私たちに対する愛を示し「不安」を取り除こうとされたのである。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマ5:8、新共同訳)
こうして十字架の打ち傷は「不安」を取り除き、神への信頼を増し加えさせる道となった。「死」から「神の安息」に至る恵みとなった。これを罪が癒されるという。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。(1ペテロ2:24、新改訳2017)
このように、イエスは「永遠の契約」で語られてきた「救いの恵み」も「赦しの恵み」も、十字架で具現化された。人を救い、「神の安息」に導くために、イエスは十字架で「死」を滅ぼされたのである。そこでイエスは、これを「新しい契約」と言われた。
食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。・・・」(ルカ22:20)
以上が、神の立てた「永遠の契約」の全貌であり、キリストの十字架で流された血が、まさしく「永遠の契約の血」(ヘブル13:20)となったのである。前回、前々回と、「神の国」と「神の義」について見てきたが、それは「永遠の契約」の具現化であり、神がされることはすべて、「永遠の契約」に基づいてのことであった。では、総括をしよう。
【総括】
(1)「平安」を与える計画
見てきたように、神がノアに立てられた「永遠の契約」は、アブラハムを通して骨組みが完成し、ダビデ、エレミヤ、エゼキエル、第二イザヤを通し、肉付けがなされた。そして、神の人に対する思いは裁くことではなく、救うことだというのが明らかとなり、イエス・キリストがそれを実行して見せてくださった。
つまり、神は昔から一貫して、「罪人にはあわれみ」という眼鏡で人と関わってこられたのである。神がされた旧約時代の出来事を人がどう思おうが、そこには「罪人には罰」という思いはまったくなかった。神はひたすらに、ご自身に立てた契約に基づき人を愛してこられた。その理由は、人は悪魔の仕業で死んでしまっていたからである。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」(エペソ2:1)。ゆえに神は人をあわれみ、何としても生きる者にしようとされた。それで「永遠の契約」の土台に、「滅ぼすようなことはない」(創世記9:11)を据えられたのである。
すなわち、神にあった計画は災いではなく、「死人」を生きる者とし、罪を犯させる「不安」を取り除き、まことの「平安」をもたらすものであった。将来と希望を与えるものであった。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)
この御言葉にもあるように、神には、罪人に「罰」を与える計画など初めからなかった。あったのは、罪人に「平安」を与える計画のみであり、神はその計画に基づき「永遠の契約」を立てられた。そして、時代とともに契約に肉付けをし、キリストの十字架へと至った。こうして、旧約聖書と新約聖書は、神が立てられた「永遠の契約」という点で一つに結び合わされ、一冊の「聖書」になったのである。
(2)疑問
すると、ある疑問が湧いてくるかもしれない。ならばどうして旧約時代、神は「神の律法」に従わない者に罰を与えたのかと。罰を与える考えは昔からなかったというのなら、罰を与えるのはおかしいではないかと。これに関しては、以前のコラムで詳しく論じているので、そちらを読んでほしい(参照:福音の回復(36)(37)(38))。
一言だけ述べると、罰に思える災いは神からではなかった。人が覚える災いは、どれ一つとして神から来るものはない。天変地異は自然の営みから来るのであり、戦争や争い、病気などは人の営みから来る。そうなったのは、悪魔の仕業で「死」が入り込み、すべての被造物が有限となって「滅びの束縛」(ローマ8:21)を受けたからである。まことに災いは悪魔の仕業であり、神からではない。
ただ神は、災いを逆手に取り、それを静観することで神への信仰を育てようとされる。ゆえに聖書は、災いを試練と呼び、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」(ヤコブ1:2、3)と教えている。
しかし、神が災いを静観するとき、わたしが助けるからこの御手につかまりなさいと、魂に呼びかけておられる。彼らの苦難をご自分の苦難とし、愛とあわれみをもって彼らを贖い、御手につかまりなさいと呼びかけておられる。
彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。(イザヤ63:9、新共同訳)
つまり、神は人を罰したりなどしていない。旧約聖書にどのような表現で書かれていたとしても、神は罪を罰したのではなく、罪人をあわれみ助けようとされたのである。それで神は、旧約聖書の中で次のように語られた。
わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。(ホセア11:9)
(3)神はいつも同じ
「永遠の契約」について見てきたが、神と人との間には実に素晴らしい契約が存在する。そのことを知っていただろうか。多くの人は知らずに生きている。「罪人には罰」という眼鏡を掛け、神の思いを計ろうとする。そのため、何か災いに遭えば神からの罰を受けたと勝手に思い込み、頑張らなければ神に愛されないと、勝手に思ってしまう。しかし、神の側はそうではない。神は初めから、「罪人にはあわれみ」という眼鏡で関わってこられた。
ゆえに、神の呼びかけに応答して救われたなら、その救いが取り消されることなどない。罪に定められることなど、決してない。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ8:1)
そして、自分が救われているかどうかは、イエスを信じているかどうかで容易に分かる。「信じる者は永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:47、新改訳2017)。そうであるから、信じる者は何も心配は要らない。私たちには、救いを保証する「永遠の契約」があるのだから。
まことに神は「永遠の契約」をもって人と関わり、昔も今も、これからもまったく変わることはない。キリストが十字架で示されたように、昔も今も、これからも「罪人にはあわれみ」であって、いつまでも同じである。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル13:8)。
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