ベストセラー作家、池井戸潤の名作を初めて映画化した本作。2013年のテレビシリーズ「半沢直樹」に始まる「池井戸ワールド」は、その後も着実にヒットを飛ばす。2017年は役所広司を主役に迎えての「陸王」、今秋からは「下町ロケット」の新章ドラマなど、「作れば大ヒット」の鉄板作品群となっている。
そんな中、WOWOWで仲村トオルを主役に迎え映像化された『空飛ぶタイヤ』が映画となった。主演はTOKIOの長瀬智也。そして今をときめく「おディーン様」ことディーン・フジオカ。映画版はこの2人を中心とした物語が展開するという点で、テレビ版とは少し趣が異なっている。
テレビ版は5時間を超える長尺であったため、原作に忠実に多彩な登場人物の背景をしっかりと描くことができていた。そして最後のクライマックスも原作通り。読者と視聴者にとって最も分かりやすいオチとなっていて、カタルシスも最大級のものとなっている。まさに「テレビ版池井戸ワールド」に共通する人間賛歌となっている。
一方、映画版は上映時間が2時間とかなり短め。しかもイケメン3俳優(長瀬智也、ディーン・フジオカ、高橋一生)をフューチャーリングしているため、彼らがいかにも輝くシーンをしっかりと組み込まなければならない。このような制約の下、映画は企業などのヒエラルキー構造の中でいかに戦うか、という視点で物語られていく。
脱輪したタイヤが、たまたまそこを通行していた主婦に激突し、亡くなったことから、トレーラーの所有者であった赤松運送の社長が世間から批判を浴びる。当初は「整備不良」として処理された事故であったが、調べていくと日本各地で同じような事故が発生していることが分かる。そこで彼はトレーラー本体の構造上の欠陥を疑い始める。しかしそれは巨大一流企業に中小企業が戦いを挑むという、到底勝ち目のない争いの始まりだった――。
原作者の池井戸氏は、一貫して中小企業を応援する側で物語を進めていくため、今回も赤松運送の赤松徳郎社長(長瀬智也)が主役になることは間違いない。だが映画版ではもう一人、彼と同じか、もしかしたら彼以上に苦悩し過酷な試練に遭遇する人物が丹念に描かれる。それがディーン・フジオカ扮(ふん)するホープ自動車販売部カスタマー戦略課長の沢田悠太である(付記:高橋一生はそれほど出番がないので、彼のファンの方はご注意を)。
面白いのは、彼だけでなく隠蔽工作を目論んでいた企業内で同じようにヒエラルキー構造の体質改善を願う社員が数人登場し、その各々がそれぞれの立場での「戦い方」を模索するという展開である。
つまり、「中小企業VS巨大一流企業」という構造を保ちながらも、巨大組織内で葛藤する人々の苦悩をも映画の中では重要な要素として描こうとしているのである。しかもテレビ版よりも短い尺の中で。
当然、物語の展開が早過ぎて、人物描写が浅薄に感じられるのは仕方ないことである。だが、あっさりと流れていくように見えるその中だからこそ、重みが感じられる言葉が発せられたとき、観ている側には余計に重くそれが響く。
沢田が赤松にこう語る場面がある。
「一人死亡した、ということを文字では読んで理解していた。でもその本当の意味が分かっていなかったんだ」
すると赤松はこう答える。
「やっとお前自身の声を聞けたよ」
ここに本作の肝がある。単なる文字が生きた言葉となることを互いに理解できる瞬間が生み出され、物語は一気に加速し、クライマックスへなだれ込んでいく。
「中小企業VS巨大一流企業」という構図で最も問題となるのは、彼らがどんな思いでその言葉を発しているか、である。もちろん表面上、企業に優劣はないし、貴賤(きせん)は存在しない。だが、私たちも世の常として体感しているのは、事実上の「優劣」や「貴賤」は厳然と存在しているということである。
例えば就活での「学歴フィルター」、中高生の間で話題となる「学校カースト制」、正規社員と派遣社員との格差、そして職種におけるブルーカラー層とホワイトカラー層など、例を挙げれば枚挙にいとまがない。こういった言葉を私たちが知っていることが何よりの証拠である。
表面的には一定のルールに則って事を進めているようなそぶりを見せつつも、実は裏で不条理がまかり通っている。そんな社会構図を私たちはどうしても垣間見る。それに対し、本作(映画版)では2つの方向からの「戦い方」が描かれている。
1つは、中小企業の社長として運送業を営み、事故により多大な迷惑をかけたと同時に被害を受けた主人公、赤松。彼は真相究明のためにあらゆる「正攻法」を試み、猪突(ちょとつ)猛進に真実へ手を伸ばそうとする。しかしそれだけではこの「戦い」に勝つことはできない。物語の後半、彼が靴底を擦り減らしてつかんだ「決定的な事実」が浮かび上がる。小説ではこれがきっかけとなって、一気に形勢逆転となるが、映画はここにもうひとひねりを加えている。
もう一方からの戦いを挑むのは、ホープ自動車の社員たちである。課長の沢田がその代表格だが、私にはそれ以外の社員たちの姿にも感動を覚えた。まるで彼らがそれぞれの立場でつかんだ「真実の一部」が沢田の下で1枚の絵につなぎ合わされるかのようであった。赤松が猪突猛進なら、ホープ自動車の社員たちは手練手管の限りを尽くす技巧派だろうか。
いずれにせよ、その両者を共闘へと駆り立てた接点がある。それは驚くほどシンプルで、ありきたりなまでの「愛情」であった。それは不可欠であるが故に、むしろ私たちが見失いがちになってしまう「無垢(むく)な愛」と言い換えてもいいだろう。
企業人の沢田をして「文字を越えて訴え掛けてくる」と言わしめたその愛情は、人を動かし、企業を動かし、そして社会を動かす結果となった。現実にこのようなことが起こるか、起こらないかではない。こういった物語に人々が共感し、面白いと思い、小説やドラマ、そして映画を通して希望や夢を抱くなら、「物語ること」最大の効用である「フィクションを超えたノンフィクション性」としては十分だと言えよう。
映画を観終わって、聖書のある一節が思い浮かんだ。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリント一13:13)
劇中、巨大一流企業に戦いを挑む赤松が気色ばんで感情を吐露する場面がある。
「無駄かもしれない。でも信じたいんだよ!」
この台詞に多くの観客がうなずき、彼の言葉に共感するだろう。なぜなら、私たちの現実はこの物語同様、あまりにも理不尽なことにまみれているからである。そして必ずしもハッピーエンドで終わるとは限らない。それは分かっている。でも、信じたい。希望を持ちたい。
そう願う思いはすべての人の中にある。だから池井戸ワールドで描かれるようなカタルシスを人は求めることになる。何度も何度も、同じような話であっても、いや同じようなカタルシスを与えてくれる物語だからこそ、求め続けるのである。
それは毎週教会に通い、牧師の説教を通して神が語られるメッセージに心打たれ、涙し、感動することと同じである。分かりきったイエス・キリストの話、先の展開が読める奇跡物語。だからこそ何度も聞きたくなるし、同じカタルシスが明日を生きる力を生み出すことになる。牧師はそのことをしっかりと意識して「語り部」とならなければならないだろう。
池井戸ワールドがここまで人々に受け入れられた秘訣、それはもしかしたら現代のキリスト教会が必要としているものを示しているとも言えないだろうか。そんなことを考えさせてくれた映画であった。
映画「空飛ぶタイヤ」6月15日(金)全国公開。
■ 映画「空飛ぶタイヤ」予告編
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