何とも不思議な物語である。カンヌ映画祭を沸かせた若手監督、深田晃司が前作「淵(ふち)に立つ」以来2年ぶりにメガホンを取った作品。脚本も編集も監督自身が行っていることから分かるように、すべてを深田氏自身がマネージメントしている作品ということができる。
物語は、突然海から男が現れることで始まる。彼は海岸に打ち上げられ、国籍も分からなければ名前すら覚えていない。いわゆる記憶喪失の状態で発見される。海からやってきたということで、インドネシア語で「海」を意味する「ラウ」という仮名をもらい、NPO法人を運営する女性とその家族の元で生活することになる。
彼には不思議な力が宿っており、まるで子どもが戯れているかのようにその能力を多用する。いつしか人々は、ラウがこの世のものではなく、人間を超越した存在、またはその使者ではないかと考えるようになっていく。しかし彼は、人を癒やしたり、回復させたりするばかりではなく、時には人の命を奪ったり、相手を死に追いやったりすることもある。その両面を見せつけられた人々は、ラウをどう扱ったらいいかで意見を対立させいくのだが・・・。
主演は今最も旬な俳優の一人、ディーン・フジオカ。しかし本作の彼は、決して熱く語り掛けることはないし、激しいアクションを披露することもない。ただ、そこに立ち尽くし、座り込み、そして不思議な現象を引き起こすだけである。
漁で打ち上げられた魚に生命力を吹き込んだり、熱中症で倒れてしまった少女に空中から水を生み出して注ぎ込んだり、病に侵されている女性の枕元に近づき熱を取り去ったり――。彼が物語のけん引役となっているが、それでいてほとんどしゃべらない。いつもどこか現実離れしたたたずまいで、画面の横に映り込んでいるだけである。
監督いわく「ご覧いただいた皆さんで、ぜひ意見を交わしていただきたいです」。
確かにすき間の多い、そして観客がそれを思い思いのやり方で埋めて物語を構成しなければならない展開となっている。観終わってあれこれを語り合うにはうってつけの映画である。
観終わって感じたのは、イエスがこの地を歩んだときもこのような反応を人々はしたのではないか、ということ。聖書の中では、バプテスマのヨハネの弟子たちがイエスに「あなたはどなたですか」と尋ねるシーンがある。
二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」 そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ7:20〜23)
また、弟子たちが師匠であるイエスに関して人々があれこれと噂していることを告げるシーンもある。
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(マタイ16:13、14)
いずれにせよ、人々はイエスの言動に戸惑いを感じ、彼をどう捉えたらいいのか逡巡(しゅんじゅん)していたことが分かる。
もちろん福音主義的に捉えるなら、すべてが神のご計画の中で決められていて、それを人々は知らなかったため、無知で愚かな議論を繰り返していたということになる。だがイエスの時代、その地方の文化や世界観に視点を埋没させるなら、本作のように「捉えどころのない不思議な男」としてイエスは描かれるのではないだろうか。
神学的には「史的イエス」とか「ジッツ・イム・レーベン(生活の座)」というが、そんな小難しい専門性はこの際関係ないだろう。大切なのは、自分たちを超越する存在に触れたとき、人はこの映画の登場人物のように戸惑い、うろたえ、そしていつしか神格化が始まるということだ。
映画のラストシーンで「もしかして」と思わされる出来事が起こる。特に聖書に親しみ、イエスの物語を熟知している者にとってはたまらない場面だ。
キリスト者であればこそ、本作を観た後でいろいろと語り合いたくなるだろう。いろんな想像力を羽ばたかせ「聖書のあのシーン」「この解釈を当てはめるなら」と、ラウの解釈をあれこれを披露したくなるのではないだろうか。
配給は日活・東京テアトル。2018年5月26日(土)全国ロードショー。
■ 映画「海を駆ける」予告編
◇