5月6日に日本大学と関西学院大学との間で行われたアメリカンフットボールの定期戦。そこで行われた悪質なタックルをめぐって日本中が混乱と喧騒(けんそう)の中にある。
監督やコーチが「私の指示です」と認めれば収束したかもしれないが、「意図と違う」と発言し、今回の事件を「誤解による偶発的なもの」と見なす見解を示したため、大いに混乱した。実際にタックルした選手本人が登場したり、タックルされてけがを負った選手の親が出てきたり、監督やコーチのみならず、学長までもが会見を開かなければならない状況に陥った。
この事件で日大のブランドが落ちたか否かは分からないが、高圧的な発言をしたとして、会見の司会者にまで火の粉が及び、不審な老女までもが英雄視される状況が巻き起こっている。
映画評論家の町山智浩氏が「これはヤクザやマフィアにありがちな『鉄砲玉』の論理ですよ!」と激怒する気持ちも分かる。確かに社会の中では、このような上司が与えた「指示」を部下が忖度(そんたく)し、「厳命」に従うという構図は起こり得る。森友・加計問題で騒然とする国会でも、本質的にはこのことが議論となっており、国民としては上層部が、実行した部下を「トカゲのしっぽ切り」で終わらせてしまっていいのか、といぶかしく思う日々が続く。
そんな中、あらためて1本の映画を紹介したい。日大アメフト事件を私が聞いたときに、ふと思い出した忘れられない名作がある。1992年に日本でも劇場公開された「ア・フュー・グッドメン」である。主演はトム・クルーズとジャック・ニコルソン。アイドル的人気を誇っていたトム・クルーズと名優ジャック・ニコルソンの演技合戦が当時も話題となった。
原作は1989年のブロードウェイ戯曲。これをロブ・ライナー監督が見事に映画として再現してみせた。その年のアカデミー賞にも主要部門でノミネートされた。
物語はキューバにあるグアンタナモ米軍基地で起こった海兵隊員の殺害事件。ある海兵隊員が、同僚2人に暴行を受けて殺害されてしまう。殺害された隊員は、仲間の隊員の違法行為(無断発砲事件)を上層部に告発していたため、報復を恐れて別基地への転属を願い、これが受理されていた。しかし異動の前日に事件が発生する。
当然同僚2人は罪に問われ、殺人罪で軍事法廷が開かれる。この2人の弁護を担当したのが主人公となるトム・クルーズ。彼は被告人から驚くべき証言を得る。それは「ある上官からの指示で自分たちは暴行を働いた」というもの。しかもそれをやらないと、今度は自分たちが、上官の命を受けた別の仲間から制裁を加えられるかもしれなかったというのだ。2人は自分たちの無罪を主張する。
海兵隊内には隠語で「コードR(CODE RED:規律を乱す者への暴力的制裁)」というものが存在し、上官がこれを部下に命じることがしばしばあった。しかしこれは「殺せ」とか「暴力を振るえ」と直接命じられるものではなく、ただそれを「におわせる」というところに真相解明の難しさが存在していた。
弁護士(トム・クルーズ)が彼らに尋ねる。「誰がコードRを発する権限を持っているのか」と。すると驚くべきことに、グアンタナモ米軍基地の総司令官(ジャック・ニコルソン)であると判明する。だが果たして総司令官にそのことを認めさせることができるだろうか。またそうなった場合、司令官の命令を遂行した2人の海兵隊員は罪に問われるのだろうか。
物語は次第に、単なる「法的劇」の域を出て、米軍全体にまん延する体質への問題提起となっていく。
組織の幹部クラスになると自由裁量で判断を任される部分が出てくる。それは言い換えるなら、部下が上司の性格や思考をおもんばかり、うまく対処することが求められることにつながる。これがうまく機能しているうちはいい。しかし一度問題が発生すると「言った」「言わない」の醜い争いが生まれる。この「いたちごっこ」に、おそらく究極の解決はないだろう。
アメフトしかり、国会しかり。マスコミはリベラリズムの視点から弱者を救済する論を張り、それに耐えかねた上層部は、幹部クラス内で「トカゲのしっぽ切り」を行い、事態は収束に向かう。
そこにないのは「正義」だ。ただしここでいう「正義」とは、他者に対して大上段に振りかざす意味でのそれではない。自らに対して、反省と共に自尊心を奮い立たせるような「正義(ジャスティス)」である。
おそらくキリスト教用語での「悔い改め」とは、このような「正義(ジャスティス)」を神から与えられた状態を指すのではないだろうか。絶対義なるお方(神)と自分が一対一で対峙(たいじ)することで得られる「真の謙遜」とでも言えばいいだろうか。
マスコミや関係者に向き合うために論理を後付けで作り上げたり、自分がどんなひどい目に遭ったかを他者に語ったりすることではなく、まず自分に対して自分で正しさ(こうすべきだったこと)を語ることである。自分は結果的に行えなかったけれど、本来はこのようにすべきだった、という正しさを理解できたとき、人は初めて他者に対して語るべき真実な言葉を持つことができるのではないだろうか。
後手後手に回って「釈明」に追われ、頭を下げて謝罪しても、腹の中で何を考えているか分からない、と言われてしまう状態から抜け出すためには、このような「正義」を与えられるしかないのではないか。一キリスト者としてそう思う。
映画はラストで胸のすく展開となっている。同時に、この「正義」をどのようにして見いだすかが見事に描かれている。その辺りは、ぜひご自身で確かめてもらいたい。
「言った」「言わない」の横行する世の中であるからこそ、時にはフィクションで描きだされる「世界観」に希望を見いだしてみるのもいいのではないだろうか。決してそのまま適用できるとはいわない。しかし袋小路に陥り、気が滅入りそうになるとき、ほのかな希望の光は時として、スクリーン(現代では液晶画面?)から立ち現れてくることもあるのだ。
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