私は種子島で生まれ育ちました。島なのに海は見えず、台風が来ると太平洋のほえるような海鳴りが聞こえる山の貧しい生活でした。
山桜の花が散る校門を、きれいな着物を着た母に連れられて、誇らしげに小学校に入学したことを今でも思い出します。田舎ですから、誰がどこの子かすぐ分かります。クラスに1人しょんぼりしている男の子がいて、友達になりました。でもその子はそれから間もなく、病気のために死んでしまいました。その子の母親は「友達になってくれてありがとう」と泣きじゃくりながら抱きしめてくれました。
それまで祖父母の死や、姉の死を幼い目で見てきました。仲良しの1年生が死ぬ、悲しいつらい体験でした。
学校が始まって間もなく、最初の音楽の時間がありました。先生は、復員した男の先生でした。みんな初めて聞くオルガンの音に、驚きと楽しみでいっぱいでした。しかし先生が突然、「おまえら、ちゃんと歌えないのか」と大声で怒鳴り、そばにいた女の子に「職員室に行って物差しを持ってきなさい」と命じました。物差しをオルガンの上に置くと、もう一度弾き始めましたが、みんなすぐに上手に歌えるはずがありません。先生は物差しをつかむと、パシッパシッと頭をたたきました。
その日から私は歌うのが嫌になり、小学校と中学校の9年間、一度も歌わない学校生活を送りました。理由は2つ、それまで頭をたたかれたことが一度もなかった、そして物差しを持ってきたのが幼い日の憧れの女の子だった、からです。ただ一度、5年生の時に優しい女の先生が「歌えるよ。大丈夫、歌ってごらん」と励ましてくれたので、みんなの前で「垣(かき)に赤い花咲く」とそこまで声を出しましたが、誰かがクスッと笑いましたので、歌うのをやめました。
音楽だけでなく、先生も嫌いになりましたが、学校には1日にも休まず行きました。1年生の2学期、通信簿をもらいました。字が読めるようになっていました。「さかえよしゆき」と書いてありました。保護者の欄を見て驚きました。母の苗字が違いました。
家に帰るとすぐ、なぜ苗字が違うか、みんなにはお父さんがいるのに、自分にはなぜいないのかと尋ねました。母は何も言わずに、ただ悲しそうな顔をしていました。母の悲しそうな顔を見ると自分も悲しくなるから、聞いてはいけないことだと幼い心で思いました。でも、大きな「?」マークが心に残りました。
そのようにして3年生になったとき、「義之、ここに座りなさい」と正座した母の前に呼ばれました。何だろうと思いながら座ると、「今日からお父さんの家に行きなさい」と言われました。
家から2キロくらい離れたところに、榮という家があることは知っていました。なぜそこが自分の家なのか、なぜ行かなければならないのか、さっぱり分かりませんでした。しかし、母の悲しくもきっぱりした顔を見ると、泣きじゃくりながらも言うことを聞かなければならないと決心しました。そして、母が用意してくれた風呂敷包みを背中に、夕方の寂しい道をトボトボと榮の家に向かいました。
そこでは、父と義母が最高のもてなしを用意してくれていました。せっかくのごちそうも喉を通らず、早々に寝床に入りました。泣きながらもう何も話さない、黙ってこの家にいようと決心し、ほとんど物を言わない子どもになりました。学校へは誰よりも早く行きました。でも先生とも友達ともふざけることもなく、おとなしくしていました。
やがて4年生の夏休みが終わろうとする、自分の誕生日の1週間前のことでした。畑で遊んでいたところに「義之ちゃん、お母さんが大変よ」と、近所のおばさんが走って呼びに来ました。
急いで駆け付けると、母はやせてか細くなった手で、私の手をつかみながら、やっと聞こえる声で「義之、ごめんね・・・」とだけ話して、息を引き取りました。1年前「なぜこんな時に・・・」と思ったことを思い出します。父の家に追いやるようにして出したのも、この日を覚悟してのことだったのです。病に侵され、病院もなく医者もいない、薬も満足に買えない貧しさの中で、必死に生き、子どもをひたすら愛し続けた37歳の生涯でした。母の日が来るたびに、誰もいない静かなところで「お母さん、ありがとうございました」と、今でも一人で感謝の言葉を語り掛けています。(続く)
※ 本コラムは、小冊子「雪よりも白く」から転載・編集したものです。クリスチャントゥデイをご覧になり小冊子をご希望される方には、1人1冊を無料でプレゼントします。申し込みは、榮義之(メール:[email protected])まで。
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