1859(安政6)年10月18日。ヘプバーンと妻クララを乗せた船は神奈川に入港した。初めて見る日本に、彼らの心はときめいた。領事館に行くために歩き慣れない道をたどっていると、東海道に出た。と、そこに大勢の人が集まり、何やらガヤガヤと騒いでいる。
やがて、ピカピカ光る槍を持った刑吏に囲まれ、後手に縛られた男がやって来るのが見えた。刑吏は男をこづいたり、蹴ったりしながら歩かせていた。たまたまヘプバーンと同じ船に乗っていた日本人商人がいたので聞いてみると、その男はきっと国事犯だから処刑されるのだろうと彼は答えた。
「コクジハンとは?」。そう尋ねると、国の政治方針に異議を唱えたり、危険な思想を持った人間のことだと彼は答えた。そして、「安政の大獄」と呼ばれている取り締まりが日本人をおびえさせていることを教えてくれた。
アメリカ領事のドールは、ヘプバーン夫妻が来たことを非常に喜び、すぐに米公使の秘書官ジョセフ・彦に彼らの住む家を至急手配するように依頼した。
「日本では現在キリスト教は禁止されています。公に布教ができずに不便と思いますが、いずれこの国は変わるでしょう。それから、外国人を見れば無差別に殺傷に及ぶ危険な人たちがいますから気をつけてください」
領事はこのように忠告してくれた。間もなく、ジョセフ・彦は近くの成仏寺という寺を借り受けることができるよう交渉し、ヘプバーン夫妻のために料理人、従僕、門番まで見つけてくれたのだった。
夫妻が成仏寺の門まで行くと、そこにしわくちゃな顔をした老婆が座って花を売っていた。「コンニチワ ワタシ ヘプバーントイイマス」。片言でこう言うと、老婆は目を丸くした。「ええ?平文(ヘボン)さん?あんたお役人かね?」。「イイエ ワタシ 医者デスヨ」。「そうかい。お医者様かい」。老婆はほっとしたように言った。
どうやら日本人はヘプバーンという発音ができずにヘボンになってしまうらしい。夫妻は今後自分たちはヘボンと名乗ることに決めた。
成仏寺に落ち着いて間もなく、神奈川奉行所から役人がやって来た。そして、ヘボンの書物を検問するために出させ、ペラペラとページをめくっていたが、すぐに帰っていった。幕府は外国からの書物の輸入に目を光らせていた。
イエズス会の書物をはじめ、マテオ・リッチの著書など12種類を禁書に指定し、外国から来た者や日本の学者などの家を抜き打ちで訪問し、調べていたのである。
その次に役人が来たとき、ヘボンはうかつにも大切にしているギュツラフ訳の聖書やニューヨークの友人からもらった聖画などを見せてしまった。奉行所の役人はしかめつらをしてこれらの品々を検問した後、黙って帰っていった。
後になって分かったことだが、この役人は外国人と不必要なトラブルを起こさずになるべく穏便に済ませたいと願っている数少ない役人の一人だったので、ヘボンは投獄を免れたのだった。
この頃の日本は、災害が頻発しており、江戸の大震災では1万人を超える死者を出した。また、かかると急死するために「コロリ」と呼ばれていたコレラが流行し、人々はこれを天罰と言っていた。
それに加えて凶作が続き、米値は上昇。各地で農民の暴動や「打ちこわし」などが続き、こうした災いの連鎖から人々は動揺し、誰言うともなく「こうした災いはすべて国を開いて外国人を入れたことに原因があるのだ」というデマが流れ、このために外国人殺傷事件が続いて起きたのであった。
ヘボンは、この国の人が外国人を殺したり傷つけるなどということは本当にあるのかと思っていたが、間もなくそれを身に染みて感じることになった。その日、夫妻が外出から帰って寺の門をくぐろうとしたとき、門の陰に潜んでいた何者かがいきなり飛びかかってくると、クララの頭を思いきり棍棒で殴りつけたのである。
彼女は気を失ってしまった。ヘボンは驚愕し、彼女を抱きかかえて家に入り、必死で介抱した。幸いしばらくすると、彼女は意識を取り戻し、翌日から普通に生活することができるようになった。しかし、この時の傷は鋭い爪跡を彼女に残した。「三叉神経障害」の後遺症から、頭痛と神経痛に生涯悩まされることになったのである。
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<あとがき>
日本がどんな国であるかを知らず、社会情勢もわきまえないまま神奈川に上陸したヘボン夫妻にとって、すべてが戸惑うことばかりだったと思います。まず、最初に目にしたものは、「安政の大獄」と呼ばれる思想的弾圧の犠牲となり、処刑されるために東海道を護送されてゆく者の姿でした。
また、住居がようやく定まって、まだ荷物も解けぬうちに、神奈川奉行がいきなりやって来て書物を検問し、キリスト教が禁止されていることを告げたのです。それにもまして彼らを戸惑わせたのは、毎日のように起こる外国人殺傷事件でした。
友好的な気持ちで日本にやって来たのに、なぜ日本人が理由もなく外国人を傷つけるのか、彼らには理解できませんでした。そして、クララも打棒による一生涯残る傷をこの時負わされたのでした。しかし、宣教師たちのこうした犠牲によって、やがて日本は開国へと導かれ、キリスト教の影響により、社会が教化される日が訪れるのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。