「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4:9、10)
2千年前の初代教会の人々の心の中にあったのは、救い主であるイエス・キリストを伝えたいというその一心です。私たちもそこに立ち帰るとき、強められます。今日、自分自身の魂の器に確かにイエスがいてくださるか、それとも、自分の理屈や人生哲学や宗教で心を満たし、イエスを押しのけてしまってはいないか確認し、もう1度イエスこそが私の救い主だという原点に立ち返りましょう。
1. イエスが来られたのは歴史上の事実
神の御子、救い主なるイエスが私たちの救いのためにこの世に下って来られたことは、誰かの想像や理論ではありません。空想か事実かの間には、決して乗り越えられない大きな差があるのです。これを区別しなくてはなりません。
私たちも神を知らない者でしたが、イエスがこの世に来てくださったことで、救い主に出会うことができました。イエスの存在に触れ、十字架の血に満たされて、この世に下って来られた救い主がいることを事実として感謝しましょう。
2. イエスによって神からの命を頂いた
私たちは、心臓が動き呼吸する肉体の命だけでなく、神からの命を与えられました。罪深い私たちは、このままでは決して神との関係を修復することはできません。例えば、難しい場所に脳腫瘍ができて手術すれば命を失う場合があるように、罪が私たちの命にまで入り込んでいて、罪だけを取り除くことができないのです。
イエスが身代わりとなって死んでくださったことで、罪は取り除かれ、私たちは解放され、神の子とされました。そして、永遠の命にまでつながる者とされたことを感謝しましょう。
3. 神の愛を実体験することができる
イエスが私たちのために命まで捨ててくださったことを知ることにより、神によって愛されているということを体験することができます。私たちは神に愛され、永遠の命まで与えられているのです。
「愛」は素晴らしいと皆が口にする割には、「愛」に満たされない人が増え、愛されたいと願う人が世の中に溢れています。聖書には、「ここに愛がある」と書かれています。こことは、あなたの心のど真ん中です。
クリスチャンにとっての愛とは、もはや想像の産物ではなく、体験することができるものです。人々がうらやむ愛を持った私たちが、恵まれ祝福された人生を歩むのは、当たり前ではありませんか。共におられるイエスを確認し、クリスチャンとしてイエスの恵みを証ししてまいりましょう。
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