井戸を使っている家が少なくなった。僕の家ではまだ井戸水を使っている。20年くらい前には、この近所もルデヤの前にあった八百屋さんも、裏手にあった銭湯も、井戸水を使っていた。しかし、今は僕の家だけが井戸を持っている。
毎年保健所から水質検査があり、一応合格だが、なるべく沸かして飲むようにと言われている。しかし、長年飲んでいるので、生で平気で飲んでいる。
休日に、少し川筋など散歩に出掛けるときは、お茶など買わず、ペットボトルにうちの水をつめて持って行く。水道水を沸かしたお茶など飲む気がしない。おいしい水なのである。
この井戸は、父が作った。戦災で焼け野原の跡地に床屋を始めたとき、井戸も掘った。1970年代、平塚駅ビルの工事や踏切の地下道工事などにより、急に井戸水が出なくなった。父は土管10数本を足して、井戸を深くした。それ以来、豊かに水が出続けている。
その時の工事の職人さんの仕事振りをよく覚えている。たった独りでやっていた。長い竹竿の元に鉄の鰐口(わにぐち)のような刃が付いていて、それで井戸底の砂を噛ませ、引き上げると鰐口が閉じ、砂を地上に引き上げる。職人は土管の縁に乗り、体重で取った砂の分だけ土管が沈む。その繰り返しによって10数本の土管を独りで地中に埋め、10メートル以上井戸を深くした。
このやり方での井戸堀りを相模方式とか何かと言っていて詳しい名称は忘れたが、何でもこの技術ができる職人はその当時でも少ないと言っていた。しかし見事な手際であった。
今回は、井戸についてとりとめのないことを書いている。
僕の姓は臼井である。父の母方の姓を受け継いでいる。祖母の先祖は外房の飯岡で、以前これについて拙稿に書いたことがある。成田空港近くに、京成線で臼井という駅があり、近くには「臼井城跡」というのもある。
人名でも地名でも、井戸が付く名は多い。僕の知人にも、井上、井出、井口、藤井、岩井、石井などがおられる。それから井戸に関係する地名も、東京に限っても、大井、小金井、新井、石神井など枚挙にいとまがない。
古くから自然湧水や清い川の流れに沿った所に井戸が作られた。地方によっては、井戸をカワと呼ぶ所もある。「井の頭」の地名などは、まさにここが水源地であることを示す名前であり、ここが神田川の水源で、江戸の水問題を解決した武蔵野の湧き水の池であった。
江戸の地を秀吉から与えられた家康が最も悩まされた問題が飲み水であった。江戸の井戸は塩水が混じり、飲むに適さなかった。そこでお茶の水の台地を開削して人工の谷をつくり、神田川を通し、江戸に水を引き入れ、木の管の水道を江戸の町の地下に縦横に配管して、町内の中央に井戸を掘り、そこに管をつないで共同の井戸として使った。
江戸っ子の自慢に「水道の水で産湯を使い」という文句があるのは、江戸の井戸は水道だったという訳なのである。また、井戸がある井戸端には、人が集まり、自然と売買交換や娯楽の場となり「市」ができた。そういう所は高台に井戸がある所が多く、高市(たけち)などの地名が生まれた。世田谷区にある高井戸なども、まさにそんなところから付いた地名に違いない。
井戸はまた、人々の交流の場であると同時に、宗教的な神聖な場でもある。日本の神話に出てくる<天真名井(あめのまない)>は、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)がこの井戸のほとりで、自分の潔白を証明するために誓約し合うという故事が伝えられている。
天真名井の水が浄化の役割を果たし、剣や勾玉(まがたま)、管玉といった呪具に井水(せいすい)をかけると神々が誕生したとある。井戸を神聖なものとする信仰が昔から日本にあって、井戸に賽銭(さいせん)を投げて祈願する習俗がある。
海外でも、ローマのトレビの泉など、コインを投げ入れて幸福を祈る。10数年前トルコを旅行したとき、古い遺跡の大きな井戸の中に島のような部分があり、そこにコインを投げ、うまく乗れば吉運だと言われ、皆で試したことがあった。
臼井の「臼」も日本では、農耕文化の中で食物調製具として「穀霊」と深い関係を持つとされ、神聖視されてきた。新築の際には、臼を最初に家に入れ、火災などの時には、臼を真っ先に持ち出すものだとされていたという。
そのことから考えると、我が姓の臼と井戸との組み合わせは、まこと縁起の良い名前ではないかと思う。井戸が神と人との出会いの場になったり、神が人を祝福する場であるというのは、聖書にも出てくる。
ユダヤ人やアラブ人の祖であるアブラハムは、神が彼に子どもを与えてくださり、その子から多くの民族が出ると約束されたが、妻のサラにはなかなか子ができなかった。サラは一計を案じ、自分の奴隷であるエジプト人ハガルを夫に与えることで世継ぎの子どもを得ようとした。
思惑通りハガルは妊娠したが、そのことからハガルは女主人を見下すようになった。怒ったサラは彼女をいじめたので、ハガルは逃げ出し、荒野を通り故郷のエジプトへ帰ろうとしたが、途中のベエル・シェバ(7つの井戸の意)で力尽きてしまう。
すると、そこに天使が現れ、彼女を励まし、生まれる子どもは神に祝福される者となるから主人のもとに帰れとさとす。彼女は井戸の水を飲み、救われるという物語(創世記)である。
イエスもある時、サマリヤの町の井戸端で、昼日中(ひなか)世間の人々から逃げて水を汲みに来ていた女性と対話する物語がある。イエスはこの井戸の水を主題にして彼女と話された。そして、この女性に希望と生きる勇気を与えられた。
これは井戸端会議ならぬ井戸端談話ということであろう。井戸というのは、人間の命を支える水の源泉であり、同時に人間の霊性(心)を満たす象徴ともなっていることがよく分かるのである。
井戸は人間にとってなくてはならないもの、特に砂漠や荒野の地では命をつなぐ場である。しかし井戸は、至極日常的で飾り気なく、素朴で、心許せる場でもある。このことを暗示するよい例が、日本人の茶人が最も尊ぶ茶碗の名品「井戸の茶碗」である。
これは、高麗の茶器で「侘(わ)び茶」の究極のものとされ、国宝に指定されているものもある。展覧会場で見たことがあるが、その肩書がなければ、ごく普通の日常の渋い茶碗にしか見えない。しかし、これを「井戸」と名付けた昔の茶人の並々ならぬ審美眼に僕は敬服する。
江戸の水が悪かったことに比べると、お隣の千葉県、昔の上総(かずさ)は良い水を出した。僕の祖父は小澤姓だったが、内房の君津郡の生まれで、東京の深川で床屋業を始めたが、店の名は「君津軒」と言った。
祖父の故郷の地がどこにあったか正確にはもう僕には特定できなくなったが、「君津の地」に行ってみたくなり、何年か前、木更津から内陸の方に行く「久留里線」に乗り、君津郡の久留里町へ出掛けた。
ここには久留里城という小さなお城がある。また、この久留里の町は、名水を産するので有名で、町を歩くと至る所に井戸が道の脇にあって、自由にその水を飲むことができる。お城の境内には「上総堀り」という井戸堀り機が展示されていた。
主に竹を材料にした機具で、かなり大きなもので、巨大な弓のような形状をしている。竹の弾力を利用して地面を穿(うが)って井戸を掘る。人力だけで少人数で掘削することができ、しかも150~500メートルまで掘ることができる。
江戸時代からあるが、明治の中頃に完成され、房総はおろか全国的にこの上総堀りでたくさんの井戸を掘った。特に別府の温泉などは、これを使う以前は数10カ所の温泉だったものが、上総堀りを使ってからは、千以上の温泉が掘れ、今日の別府の名を高らしめたという。
この上総堀りは、現在では世界中で日本のNPOの働きとして井戸を掘るのに使われている。特にアフリカやアジアの途上国において、少人数の人力ででき、学べば現地の人でもでき、竹が取れる所では機具の補修も可能なので、この技術は大いに喜ばれ、感謝されているという。
こういう技術のボランティア活動こそ、最も日本人が世界に誇ることができるものであろう。
万葉集に、この上総の地の詩人の歌が残されている。
勝鹿(葛飾)の 真間(市川市)の井見れば立ち平(なら)し
水汲ましけむ 手児名(てこな)し思ほゆ
(現代語訳:葛飾の真間の井戸を見ると、毎日そこに通って水を汲んだという悲しい運命の少女のことがしのばれる)
この歌からも、古い奈良時代から上総の国(千葉県)には名のある井戸が掘られていて、おいしい水を出していたことを知ることができる。
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