僕は教会での働きの他に、2つの超教派のグループの活動に参加している。1つは「全国朝祷会」で、この団体は創設されてかなり長い歴史があるもので、カトリック、聖公会や他の教会教派を含む大きな組織で、「朝の祈り会」という1点で全国的な広がりを持っている。「平塚朝祷会」として、平塚教会を会場に毎月第2土曜日を例会としている。
もう1つは、まだ創られて5年余りしかたっていない小さな集まりの「自活伝道連絡協議会」で、矢島徹郎師を代表とする、使徒パウロの天幕作りの自給自活伝道を現在の日本に自覚的に広めようという願いを持つ牧師・伝道者・信徒の集まりである。
僕はこの団体の存在を知ったとき、「わが意を得たり」の感を持った。それは、僕の内に、このパウロの自給自活伝道方式こそ、現在の日本のキリスト教界の閉塞状況を救う手掛かりになるのではないかという思いが、次第に醸造されつつあったからである。
そして、その思いへの啓示が与えられたのが、以前何気なく見たテレビに放映されていた「ヨーク軍曹」という古い映画だった。その頃、僕はJTJ宣教神学校を卒業し、母教会の平塚聖契教会で伝道師に任職され、月1回の説教奉仕をさせていただいていたが、同じ平塚市内にある妻の実家で始めた「花水チャペル」という日曜日午後の集会を持っていた。その実家には、妻と僕とで新築した家があり、時々僕が泊まりに行っていた。
ある休日の午後、「午後のロードショー」で昔の映画をやっていた。これは、1941年製作のアメリカ映画で、監督はハワード・ホークス、主演はゲイリー・クーパー。アルヴィン・ヨークというテネシー州の片田舎クロスビルに住む、貧しい農家の青年の青春物語である。
この村には、小さな教会がある。日本の俳優、大村崑(こん)によく似た、やせて眼鏡をかけた、人の好きそうな牧師が説教しているところから、この映画は始まる。その最中に、一隊の騎馬の集団が教会の境内になだれ込んできて、ピストルを乱射して礼拝を台無しにしてしまう。
その首魁(しゅかい)が、クーパー演じるアルヴィン・ヨークである。彼は、農家ヨーク家の長男で、妹や弟がいる。1916年ごろで米国も不景気の時代で、彼は日頃の鬱憤(うっぷん)を飲酒ではらし、酔って乱暴狼藉(ろうぜき)をする。その礼拝の衆の中に、彼の母親や妹、弟たちもいるのである。
父親が亡くなって、父親代わりの長男として、一家の責任が彼の肩にかかっている。働き者の好青年であるが、飲酒の後の酒乱が母親の頭痛の種、彼女はアルヴィンが酒をやめ、信仰を持つようになってほしいと村の教会の牧師に相談する。
この「こんちゃん」に似た眼鏡のさえない貧相な牧師は、親しみやすく、とても親切である。そして、彼はその村の唯一の雑貨店の主人でもある。貧しい一家の苦しい家計を支えるため、母親はニワトリを飼って、その産んだ卵を牧師兼雑貨店の主人に買い取ってもらいに来る。
牧師は損を承知で買い取り、彼女の愚痴も聞いてあげる。彼もアルヴィン・ヨーク青年の行状にはお手上げで、「彼は何か特別な経験でもしない限り、信仰には入るまい」と思っている。
アルヴィンには思いを寄せている村一番の美人グレイシーがいる。実は、彼女もひそかにアルヴィンを好いているのだが、同じく彼女を狙う村一番の金持ちの息子アンドリューという強力な恋敵がいる。
アルヴィンは、良い土地を見つけ、そこに家を建て、グレイシーと住むことを夢想する。地主に掛け合うと、恋敵アンドリューもこれを買いたいと言ってきていることを知る。相手は金持ち、彼には金がない。
しかし、近く催される村の射撃大会で優勝すれば、その賞金でどうにかなる目算を立て、その大会が終わるまで売買契約の期間を延長してほしいと頼む。彼の熱意にほだされ、地主もアルヴィンのラバを担保に取ることで合意する。
彼は射撃に関しては天才的な名人である。それで、狩りの腕も最高であった。彼はとても不可能と思われる大会優勝を成し遂げ、その賞金を持ってその土地を買いに地主の所へ行くと、相手はとても優勝などあり得ないと思い、約束の期間を待たず、恋敵のアンドリューにすでに売り渡してしまった。
その裏切り行為に怒り心頭に発し、彼は2人に報復しようと鉄砲を携え出掛けていく。森を通り抜けていくとき、突然雷雨になる。彼が騎行しているそばの木に落雷する。
木は裂け、銃は曲がってしまう。馬と共に倒れて気を失うが、馬も彼も一命を取りとめた。まるで、マルティン・ルターが友人を落雷により失い、自分だけ残されたように、また、パウロのように、アルヴィン・ヨークはその体験によって突然の回心をする。
聖書を読み、神を信じ、教会ではかの牧師のよき片腕として教会学校の教師をするほど敬虔な信徒になる。そして、乱暴を加えた恋敵のアンドリューにも、地主にも謝罪するまで人間が変わってしまった。
アルヴィンとグレイシーの関係も相思相愛の仲に発展するが、そんな時、アメリカは第一次世界大戦に参戦し、ドイツと戦うことに決定した。その徴兵令が彼のところにも来る。彼は回心の後、信仰による非戦論者になっていて、兵役を拒否しようとする。しかし、牧師はアルヴィンをいさめ、むしろ兵役志願に登録することを勧める。
徴兵に応じたところで、例外事項の中の良心的兵役拒否者として除外してもらった方がよいと言われ、署名する。しかし、彼の属する教会は弱小で、その枠に入れてもらえず、結局は徴兵に取られることになった。
彼は軍隊に入るやその射撃の腕が認められ、中隊の伍長になってフランス戦線に出撃する。塹壕戦から突撃に移り、激しい戦闘に巻き込まれ、ドイツ軍に包囲され、味方軍の全滅の危機を救ったのが、ヨーク伍長の狩りの経験から得た戦術による勇敢な行動と正確無比の射撃の腕前で、その射撃の神業的正確さから敵軍をパニックに陥れ、多数のドイツ将兵を捕虜にして味方を大勝利に導く。
その手柄によって軍曹へと昇進し、「ヨーク軍曹」として母国アメリカへ英雄として凱旋し、ニューヨークをはじめ、アメリカ中が彼を歓迎する。故郷テネシーでも大騒ぎで、すべてがうまくいき、グレイシーとの新居と土地も与えられ、「万事を益としてくださる」を地で行くハッピーエンドのとても後味の良い映画なのである。
しかし、僕がこの映画から啓示を受けたのは、主演ゲイリー・クーパーからでも、物語の筋からでもなかった。この映画で主人公のよき相談相手であり、時によきカウンセラーにもなったあの大村崑ちゃん風の村の教会の牧師の在り方であった。
アメリカ合衆国は移民の国であり、信仰の自由を求めて多くの宗派がアメリカにやって来た。大きな教団は、それなりの教職制度をおのおのアメリカに持ち込んだことであろう。私たちのカベナント教団も、その中の中級グループの1つであったはずである。
その中には、この映画の中に出て来る弱小グループ、あるいは単独の教会もあったことであろう。小さな村の教会を維持するため、この映画の中の牧師は、村人や信徒の需要に応えるためでもある雑貨店をやり、その収益で生計を立て、牧師として教会奉仕、伝道に当たっていたのであろうと思う。
彼がその生き方を決断したのは、その村の実情に合わせ、その村人の生活状況を考えての上だったであろう。パウロが「あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした」(Ⅱコリント11:9)とあるように。
そして、この牧師はアルヴィン・ヨーク青年や家族のよき相談相手であり、よきアドバイザー、カウンセラーでもあった。しかも、その日頃の相談の場所は、教会堂ではなく、彼の働く店前であったことである。雑貨店の店主兼業のこの牧師は、この自活伝道を喜々として誇りを持っていていたように僕には思われた。
パウロも、「主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです」(Ⅰコリント9:14、15)とも言っている。
平塚教会で数年前のクリスマスに、僕の床屋の店のお客様の1人が求道され、洗礼を受けた。サラリーマンの方で、店のお客さんとしてお話や相談を聞くうちに、教会に導かれた。いつも相談やカウンセリングの場所が店前であったことが、僕も知らないうちに「ヨーク軍曹」の村の牧師と同じ道を歩んでいることに気付かされ、感謝している。
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