弱い商売、床屋さん
金馬の落語「藪(やぶ)入り」のまくらの1節に、「えー、世の中には強い商売と弱い商売がありまして・・・」というのがある。強い商売とは、品物を売る商い。客を気に入らなければ、「お金はあなたのものでも、品物は私のものだ。いやならおよしなさい」とタンカを切ることができる。しかし、弱い商売というと、噺(はなし)家、さらに弱いのは床屋さん。お客とケンカができない。「気に入らなければおよしなさい。お金はあなたのもので・・・品物も・・・やはりあなたのものだ・・・」と、頭は持って帰ってしまう。
僕がこの床屋の道に入ったばかりの頃、仙台の近くの古川という所から来た、畠山さんという若い職人がいた。彼はヒゲそりあとも青々とした偉丈夫で、東北弁のコンプレックスなど毛筋も持ち合わせていない人で、日常のあらゆる会話も自前のお国言葉で押し通した。
ある日、ごちゃごちゃと注文の多い客が来て、刈っている間中、鏡を見ては右や左に顔を傾ける。自分も経験があるが、この種のお客は一番やりにくくて、いやみな客だ。この畠山さんは、ついに忍耐袋の緒が切れて、いきなり刈り布を外すと、「帰れ!金はいらねえ」と怒鳴った。客はびっくりして目を白黒させて出て行った。
後で畠山さん。父の前に手をついて平謝り、「ご主人に損をさせてしまいました。料金は私の給料から引いてください」。僕はこんなことができた畠山さんを心の中で尊敬した。とても僕のようないくじなしにはできる所業ではなかったから。こんな人はまあ例外で、床屋は噺の通り、実に弱い商売なのである。
「まっとう」という言葉を聞いた日
もう十数年前になるが、ある時、いわゆる「無銭飲食」ならぬ無銭調髪の客が数人立て続けに来たことがあった。3人目の客は酒気を帯びていて、案の定、全部終わってからゴタゴタと金の持ち合わせのないことを並べ立てた。
どうもこういうことは、この手の輩(やから)の間で回状でも回すものらしく、「あそこの床屋は甘いぞ」との風聞が立つものらしい。さすがに腹が立って、この風聞を断ち切りたい思いもあって、警察に連絡した。
近所の交番のお巡りさんが2人でやって来た。初めのうちは丁寧に事情を聞いていた。「キミ、こんなまっとうな仕事の方を困らせてはダメじゃないか」という言葉が耳に聞こえてきた。
しかし、この人は終始あいまいな言辞を弄(ろう)していたので、ついに警官も常習のヤツと認めたのか、店を出るや手荒く彼を引っ立てて行った。僕は、この警官が言った「まっとう」という言葉が気になり、気に入った。最近ではあまり使われない言葉だ。手元にある辞書や『広辞苑』にも、この言葉は載っていなかった。
金田一春彦、石毛直道、村井純監修の『新世紀ビジュアル大辞典』(学習研究社)にやっと載っていた。「真っ当」の字が当ててあり、「まとも、まじめ」の意とあり、英語の honest「正直」、strait「まっすぐ」の訳が当てられている。なるほど、床屋業は、大もうけはできないが、まっとうにやっていれば、食べていける商売なのである。
「まっとう」の反対の言葉は?
床屋は鏡を立てて、お客も自分も正直に丸写しにする。実に透明性が高い。裏でコソコソ何かできるようなものと違う。それに、肌で感じて痛ければすぐ分かるし、切れば血が出る。良しあしはすぐに分かるのである。
ある時、「まっとう」の対極にある語は何だろうかと考えた。ふさわしい言葉が思い浮かばなかった。そこは床屋。お客様に聞くという手がある。ご年配の常連の方に聞いてみた。「それは『ヤクザ』だろう」という、打てば響く答え。さすがに教養豊かな方である。
なるほど、「まっとう」の反対語は「ヤクザ」か。思わずヒザを打ちたい気がした。ヤクザとは、相手の弱みを握り、あるいはそれにつけ込み、コワもてや入れ墨ですごんで、相手をおどし、労せずして金品を巻き上げる。
現代のヤクザは、背広にネクタイと紳士然としてはいるが、その実は昔も今も変わらない。職業としてのヤクザは別にしても、最近ではこのヤクザ性のものがまかり通っているようだ。老舗という看板にあぐらをかいて、客をだましていた「吉兆」。役人の権限を盾に取り、庶民の年金をネコババした保険庁。許認可権を乱用しての大分の教育委員会の汚職。
民間でも、強い立場にいる者は気を付けなければならない。医師は病気という弱みを持つ患者に常に強い立場にある。また、先祖の骨を握っている僧侶。さらに、人の秘密を知りやすい教師、牧師、神父、裁判官や警察官などは、強い立場を利用したくなる誘惑に陥りやすいのではないか。この世界の事情は「まっとう」な事と「ヤクザ」な事の間にあるような気がする。
まっとうさの基準
まっとうさの基準は、少なくとも第一に、相手の弱みにつけ込まないこと。第二に、他人よりも自分を優位に置こうとしないこと。第三に、その力が備わっていても、自分のために利用しようとしないこと、ではないだろうか。
聖書を読むと、イエス・キリストというお方は、このまっとうさを生き貫いた人だったことが分かる。由木康(ゆうき・こう)という方が作詞作曲した「馬槽(まぶね)の中に」(讃美歌121番)という歌がある。
① 馬槽の中に 産声(うぶごえ)上げ
木工(たくみ)の家に 人となりて
貧しき憂(うれ)い 生くる悩み
つぶさになめし この人を見よ② 食する暇(ひま)も うち忘れて
虐(しいた)げられし 人を訪ね
友なき者の 友となりて
心砕きし この人を見よ③ すべてのものを 与えしすえ
死のほか何も 報いられで
十字架の上に 上げられつつ
敵を赦(ゆる)しし この人を見よ④ この人を見よ この人にぞ
こよなき愛は 現われたる
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活(い)ける神なれ
この詩の中で語り尽くされている通り、イエスは大工の子として生まれ、父のあとを継いで、貧しい中、母や弟妹を支えた。30歳の頃、使命に目覚め、12人の弟子を集め、3年に満たない伝道活動の末、その国の宗教家や支配者を批判したかどで十字架刑に処せられた。
イエスは伝道活動の初めの頃、40日荒野で断食された後、悪魔から3つの誘惑を受けた、と記されている。
第一は、石ころをパンに変えて食べよ、という誘惑。今日では、食糧相場や投機的な手段、あるいは遺伝子組み換えのようなヤクザ性を持つ手管かもしれない。
第二は、神殿の頂からジャンプしてみせよ、天使がそれを支えるだろう。これは、アッと驚かせる「センセーション」によって人心をとろうというものだ。今日のオリンピックや万博のようなものと思えばよい。
第三は、この世界の支配者たる悪魔を礼拝し、彼と手を結べ、という誘惑。権力や権威、権限を利用する支配である。今日的な例は、かのヒトラーであろう。
イエスは、これらを全部拒絶された。彼が選んだ道は、まことにまっとうな生き方であった。自分に与えられた一切の奇跡を行う力を自分のために利用されなかった。自分がよみがえらせたラザロを連れて歩くだけで、世間は彼に屈服しただろう。しかし、彼は十字架上においてさえ、その力を使われなかった。
まっとうな大工の子として、人々に代わって一粒の麦として死ぬ生涯を選んだのであった。今日こそ、この人に注目する必要があるのではないか。
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