イサクとイシュマエルをどう理解するか
先回において、イシュマエルという名が欧米で忌避されている理由を探ってみた。欧米のキリスト教成立の歴史とイスラム世界との対立の事情が、イシュマエルを解釈する上に投影されているのではないかというのが、僕の推論であった。
聖書が本来伝えようとするメッセージを歪めているのではないかという疑問が湧いてきたのである。むしろ、その歴史過程の外にある私たち日本人の日本人的心情やセンスによって、このイシュマエルとイサクの関係を読み解く方が聖書本来の主張に肉薄できるのではないか、というのが僕の思いである。
欧米の神学を極めた方々から見れば、僕などの素人の意見など片腹痛いという感じであろう。しかし、僕なりに言わせていただければ、日本のキリスト教の牧師、聖書学者は、バルトやブルンナーについては詳しくても、日本の文化や歴史、日本人の心底に流れる感受性や心理、その納得の仕方について、どれほどの研さんを積んできただろうか。
「福音の土着」ということが叫ばれて久しい。イエス・キリストの福音を理知的に受け入れるだけでなく、心の深い琴線に触れて、心から納得し、悟るものでなければならないと思う。
北森神学からイサクの意味するものを探る
幸いにも僕は、日本が世界に誇ることができる、独自の神学を打ち立てた北森嘉蔵博士の神学に、若い時に触れることができた。早稲田大学の4年生の時、大学の文化祭の特別企画で、北森嘉蔵と亀井勝一郎両氏のジョイント講演「宗教と文学」を大隈講堂で聞いた。北森博士の肉声に接したことは、僕の人生で実に幸運であった。
その時の話は、ピリピ書2:6~11からのもので、若い僕の心に福音の神髄が心底にしみわたるのを覚えた。以来、北森師の著書に親しんできた。特に『神の痛みの神学』『日本の心とキリスト教』『自乗された神』などを精読した。
中でも『旧約聖書物語』は、神の痛みを根底にして、アブラハムとイサクのモリヤの山の体験を、イエス・キリストの十字架の贖(あがな)いが、神の義と愛が交差し、成就する場として、日本人の心情からも深く納得を迫るものであった。
その本の中で最も僕を感動させたところは、申命記22:6、7の神の命令「たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵が入っていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである」を北森師は引用され、「主はこれほどまでに、母鳥の心情を大切にされている。親の心の痛みに配慮されている。この聖書箇所は、神が痛みに敏感な感受性豊かな方であることを、われわれに示しておられるところだ」と指摘されている。
この聖書箇所を発見された北森博士のセンスにも深い感動を覚えた。そんな小鳥の心にも配慮される神が、最も忌み嫌われたのが、カナン地方で専ら行われていた、モレク神へ、自分の子を供犠(くぎ)する礼拝であった。
「また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である」(レビ記18:21)と厳しく禁止しておられる。この2つの聖句は、いずれも神の愛とあわれみ、それ故の痛みを深く覚える心情を表している。
その神が人間の罪を解決されるためには、ご自分が最も忌み嫌われる異教の方法を採用されねばならなかった。それがモリヤの山で、アブラハムがイサクをささげる行為であった。それは、ゴルゴダの十字架にご自分の独り子をささげられる行為に通底する。
その神の痛みを私たちに感じさせる実例の物語を北森師は提示されている。それは、士師記11章のエフタの物語である。遊女の子であったエフタは期せずして、イスラエルの指導者に選ばれた。彼は強力な敵アモン人との戦いを課せられる。
エフタは戦いの前に、主に誓願を立てる。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます」と約束してしまうのである。
やがてエフタは勝利の帰還を果たして、自分の家に帰ると、何と自分の独り娘が、タンバリンを鳴らして踊りながら迎えに出て来たのである。エフタは彼女を見るや、「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった」と言い、自分の着物を引き裂いた。
エフタにとって思ってもいない悲劇であった。しかし、神と約束した勝利のいけにえは果たさねばならなかった。ここにも神が忌み嫌われるはずの人身御供(ひとみごくう)が表されている。
北森師は、こう解説される。独り娘を見て打ちのめされた、父エフタの心は、主なる神の心そのものである。神は人類を敵サタンの支配から解放するため、自らに誓願を立て給うた。しかし、はからずもそれは、ご自分の独り子を犠牲としてささげることに他ならなかった。そこに父なる神の痛み、深い悲しみがある。
北森師は、このテーマは日本人なら最も理解できることとして、日本の伝統的文化である歌舞伎の演目「菅原伝授手習鑑」の中の「寺小屋」の段を挙げている。菅家の家来松王は、独り息子を菅原道真の寺小屋で学ばせている。道真は謀られて謀反人にされてしまう。
彼の独り息子菅秀才を捕らえて、殺して首を差し出せとの命が下される。松王は主人への義理(忠義)から、自分の独り息子をその身代わりとして差し出す物語である。主人の息子、実はわが子の首に対面する「首実検」の場において、松王が妻に言うせりふ、「女房喜べ、せがれがお役に立ったわやい!」。しかし、つぶやく。「せまじきものは宮仕え」と。この言葉は、日本人であれば、義理の上での忠義の行為も、情けにおいては忍び難い心の痛みを、見る者も感応して涕泗(ていし)をしぼる場面である。
アブラハムがモリヤの山でイサクをささげる心の痛み、神が独り子をゴルゴダでささげた痛みを、日本人は理解できる。
アザゼルのやぎとは誰か
さて僕の本論に戻すと、このようにアブラハムとイサクの物語は、イエス・キリストの十字架の型として、古くから引用されてきた。では、アブラハムとイシュマエルはどうであろうか。
ここで僕は最初の稿で指摘した、イシュマエルとイサクの物語の同等性と並列性に目を向けたい。北森師の影響を受けてレビ記を読み進むうちに、この創世記の記事と呼応すると思われた箇所にぶつかった。それはレビ記16:7~10である。
「二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである」
さらに21、22節に「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ」とある。
このアザゼルのやぎは、まさにイシュマエルの姿ではないか。彼自身には何の咎もないのだ。主に女主人サラの利己的保身の動機、アブラハムの気弱さ、またねたみや虚栄、ライバル意識、偽りやあらゆる不合理や理不尽さ、つまりアブラハムとサラの不信仰故の罪の重荷を、少年イシュマエルの肩に負わせ、わずかばかりの食料と、皮袋いっぱいの水を与えられ、当然疲労と渇きと飢えで、荒野の中、早晩死を運命付けられているアザゼルの荒野に放逐されたのである。
そしてその姿は、イエス・キリストの姿でもある。あらゆる人類の醜い、汚れた罪咎が、ゲッセマネの祈りの時、イエスに負いかぶせられたとき、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」とイエスは血の汗をひたたらして祈られたではないか。
またゴルゴダの十字架の上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と悲痛に叫ばれたのではないか。人類の罪、わたしの罪がイエスの頭上に置かれたとき、神はひとときわが子を見捨てられた。その悲しみの故に、天地は暗くなったと記されている。
その悲痛さの故に、エフタが自分の衣を裂いたように、あの神殿の分厚い至聖所の幕が上から下まで真っ二つに裂けたのである。そして、その裂け目から私たちは、はばからずして、神の聖所に入ることができたのである。
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