欧米人になぜ、イシュマエルの名がないのか?
キリスト教が欧州、ロシア、米国に広がっていき、欧米の人々は、生まれた子どもに聖書の中の人物からその名を引用して命名した。そして、男性に限ってであるが、好まれる名前のベスト10を挙げると、1・デイビッド(ダビデ)、2・スティーブン(ステパノ)、3・ポール(パウロ)、4・マーク(マルコ)、5・アダム、6・ロバート、7・リチャード、8・マイケル(ミカエル)、9・クリストファー、10・フィリップ(ピリポ)、だそうである。
これを見ても、いかに聖書の人名からが多いかが分かる。その他にも、アブラハム、イサク、ヤコブ、ペテロ、ヨハネなど、枚挙にいとまがない。しかし、イシュマエルの名だけはない。皆無ということはなかろうと思い、以前から親しい何人かの米国宣教師に聞いてみた。
「知人、友人にイシュメール(イシュマエルの英語)の名はあるか。あるいは生まれた子どもに、この名を付ける可能性はあるか」などの質問をしたところ、答えは「ノー」であった。「おそらく欧米人では決してこの名を子孫には付けないだろう」ということであった。なぜこれほどこの名前が嫌われ、避けられるのであろうか。
誰でも自分の子には好感の持てる名、評判の良い、縁起の良い名を付けるのが人情であろう。半面、そのイメージに反する名前は忌避されることになる。少し前、日本でも自分の子に「悪魔」と命名して物議をかもした事件があった。結局、市役所が子どもの将来のためによからずと受理しなかった。
イシュマエルは、物語の状況から、追放された者、のけ者、宿なしなどのイメージを湧かせるためか、あるいは聖書の「彼は野生のろばのような人になる、彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので、人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」(創世記16:12)の預言が与えるイメージのためか。でも、これは読み方によっては、とても独立独歩の男らしい姿にも映る。
とにかく欧米では、イシュマエルの名はタブーであるようだ。しかし、欧米を離れて中東のイスラム教圏では、この名は最も名誉ある人気のある名前となる。「イスマエル・・・」の名は、エジプト、パレスチナ、イラクなどのアラブ世界で、トルコやイラン、インドネシアなどのイスラム教世界では、よく目にする名前である。
まるでイシュマエルの名は、2つの世界で寸断されているように映る。そして、この名の発祥であるユダヤ人の名にも、古い時代には、イシュマエルの名の人物が見られるが、ある時代からはなくなる。その分水嶺となる歴史的事件は、7世紀に始まるモハメッドによるイスラム教世界の出現であろう。
そして、11~13世紀にわたる十字軍の聖地争奪戦争の中で、この2つの世界、キリスト教世界とイスラム教世界の対立、亀裂状態は決定的になったのではないだろうか。「イシュマエル」は同じ一神教の祖、アブラハムの長子としてイスラム世界の象徴となり、先祖となった。そして「イサク」は、同じアブラハムの正統の子孫としてのユダヤ、キリスト教世界の象徴となり、先祖となった。そして、イシュマエルの名はユダヤ、キリスト教世界から切り離された。
映画「白鯨」を見て思ったこと
先日、ビデオで古い映画「白鯨」を見た。1956年製作の米国映画で、ハーマン・メルヴィル(1819~91)の原作『白鯨』を、ジョン・ヒューストン監督が映画にした。僕はたぶん中学3年生の頃、映画館でこれを見た。まだ年少であったが印象深く、感動した映画で、主演の船長役、グレゴリー・ペックの復讐の執念に燃え、巨大な白い鯨に立ち向かう迫真の演技に圧倒されたものだった。
再びこの映画を見て、思いを新たにしたことがあった。この長編小説は、大学時代に読んだがなかなか骨の折れる本であった。このメルヴィルの作品は、米国文学の白眉といわれ、米国文学の10指に入るものだ。しかし、この作品が世に出た時代は、米国のピューリタンの信仰が大きな影響力を持った時代であった。
禁欲的で、倫理道徳観の強い世論が支配的であった。この時代に限って、先述の人気ナンバーワンの「デイビッド」の名前も、ダビデ王のバテ・シェバ不倫、そして殺人事件の故に嫌悪され、この名前は付けられない時代であったという。
そんな風潮に逆らってメルヴィルは、この小説の主人公でこの物語の語り手でもある名前を、「イシュメール(イシュマエル)」とした。そして、主役の船長の名は、最も悪逆の王とされていたイスラエルの王アハブ、すなわち「エイハブ」であった。
この映画は別の意味では、実に聖書的で、またよきピューリタン世界を反映していると言える。映画の冒頭の場面に、捕鯨基地の港町にある教会での礼拝シーンが映される。舟形の説教壇に立つスポルジョンのように堂々とした風姿の牧師が、ヨナ書を説教する。
会衆が固唾(かたず)をのんで聴き入る迫力のある説教である。また乞食のような姿をしたエライジャ(エリヤ)と名乗る預言者が現れ、この航海では、たった1人を残して全員が死ぬという不気味な預言をする。
昔の捕鯨の光景が映される。そして、とられた鯨が解体される。彼らは鯨の脂身の部分だけ取り、そこから油を搾るのだが、あとの肉も骨もみな海中に捨てる。日本の昔からの捕鯨は皮1枚、血の1滴も無駄にしないという。この捕鯨のシーンを、現代の「グリーンピース」の輩(やから)に、自分たちの近い先祖がしていたこととして見せてやりたい気がする。
結局、エイハブ船長の暗い復讐の情念に、ただ1人ピューリタンの模範のような航海士のスターバックまでも乗組員全員が取り込められて、この白鯨に船もろとも沈められて、イシュメールだけが、預言通りたった1人生き残るのである。
今でこそ傑作とされるこの文学作品は、当時は清教徒的世論の批判を浴びて、メルヴィルの作品は売れなくなり、作家生活は立ちゆかなくなって、彼は没落して惨めな生涯を終えることになった。
今は亡き清水氾先生(奈良女子大教授で英文学者)の解釈によれば、この白鯨は、メルヴィル自身も影響を受けていたかもしれない、当時流行の理神論の神の象徴であるという。この神は、創造主ではあるが、人間の運命には無関心であると説かれていた。
その神に立ち向かったエイハブ(アハブ)そして1人生き残ったイシュメール(イシュマエル)。その名前こそが当時の清教徒たちの心理を逆なでしたものだったかもしれない。たった1人欧米人の中で、小説の中とはいえその名が付けられたイシュマエル。これでさえタブーを犯すものとして嫌悪されたとなれば、今日なお、欧米の神学の影響の中にある日本の学者や牧師たちがこの名にビビるのは無理もない。
しかし、僕は思う。後世の歴史の出来事、十字軍の運動などは欧州に大きな影響を与えた。これによって欧州に入って来たイスラム文明、この中には古代ギリシャ、ローマの文化や文明が高度に保存されており、これをもとに欧州のルネッサンスが起こったとされている。
しかし、この十字軍の動機や原因は、聖地を解放するというのは口実で、実際はイスラム諸国の富と物へのどん欲さであり、しばしばイスラムへの刃は、近隣の弱いユダヤ人に向けられ、彼らを虐殺し、金品を強奪した。
この十字軍運動が、決して正しい信仰的動機や、正しいイエス・キリストの福音理解に基づくものではない。これによってもたらされたキリスト教とイスラム教との敵意とか偏見が、歴史を遡行(そこう)して原典の聖書解釈に影響するとしたら、それは果たして正しいことだろうか。
いまだに米国のキリスト教会の一部が堂々と、キリストの福音伝道にクルセード(十字軍)という用語を使用するのは理解できないことだ。これは一種の歴史音痴か、自分たちだけがいつも正義であるという、パリサイ的傲慢(ごうまん)さかのどちらかであろう。
むしろそんな十字軍やユダヤ人迫害の歴史体験や伝統のない私たち日本人が、普通の日本人的感性によってじかに原典の聖書を先入観や偏見なしに、白紙のままの心で読んだときの感動や印象の方が、より神が言わんとしておられる神髄を汲み取ることが可能なのではないだろうか。
◇