日本人の英語力は、僕らが20代だった頃に比べてもさほど進歩したとは思えない。先日あるテレビ番組で、外国人が日本の高校生に近づき道を尋ねようとすると、逃げ出してしまったというシーンを見た。東京オリンピックを控えていて、大丈夫かなと思った。
数年前、台湾に行ったとき、台北の故宮博物館へ行こうと高校生に英語で道を尋ねると、片言の英語で懸命に教えてくれた。この一例だけで判断するのは早計ではあるが、日本の英語教育が相変わらずの文章、文法を中心とする目による教育に重点を置くのは昔と同じだ。
一部には聞くことを重視する耳からの教育にシフトしているとも聞いている。とにかく、相手の言っていることが分からなければ、会話は成り立たない。話していることの半分でも分かれば、話す力は片言でも会話は続けられる。
しかし、僕も今の若者のことをとやかく言う資格はなかった。平均的日本人の1人として、中高大学を通して10年間も学校で英語を勉強した。大学時代、前半の2年間は英文科で学んだ。少しは英語に自信があった自分が、まったく打ちのめされた体験をした。
それは、僕が家族持ちの30代中頃だったが、僕の属する教会にある日、米国から大学を出たばかりの美人の英語教師が派遣されて来た。そのリン嬢は、教会の青年会での英語によるバイブルクラスを担当してくれるという。
彼女は宣教師ではないので日本語はまったく話せない。彼女は当然のように僕にも英語で話し掛けてくる。逃げるわけにもいかず、何とかあいさつぐらいはできたが、結局「ナイス・トゥ・ミーチュー、ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ」(はじめまして、どうぞよろしく)と言ったきり、僕の英語は止まってしまった。
彼女がいろいろと質問してくることにまったく答えられなかった。われながら、何と情けない、と不甲斐なく思った。そして、僕は一念発起した。どうにかして、彼女と対等の会話をするようになりたい! じゃあ、どうやって? もうこの歳になってか? とにかく、英語能力向上のための「ノウハウ本」を読み漁(あさ)った。
当時でもお金をかければいろいろの手段があった。「リンガフォン」など高価なレコードやテープ付きの教則本で学ぶ方法があった。家族持ちの僕ではとても無理だった。
金のかからない方法を選んだ。中でも最も良いと思ったのは、同時通訳者で三木武夫首相のブレーンでもあった国弘正雄教授の提唱する方式であった。国弘氏は、戦時中旧制中学の生徒だった。戦中派は、英語は敵性語として禁じられていた中で、彼はひそかに英語のリーダーを朗読して英語を独習していたらしい。
ある時、関西の彼の近所にあった米兵の捕虜収容所に近づき、近くにいた黒人兵に「Where are you from?」(どこの出身ですか?)と聞いてみると、「オハイオ」と答えた。「俺の英語が通じた!」という感激が、その後の国弘青年の生き方を決定付けた。
彼は生の英語や教師もない中、学校で学んだ教科書を朗読するだけで、通じる英語を身に付けていたのだ。戦後は英語の達人になっていくのだが、その時、僕が読んだ彼の本の主旨は、リーダーや文法で学ぶ学校英語で育った人でも、中学2年生の英語のリーダーを無心にひたすら音読すること、望むらくは、そのリーダーをネイティブの人(生まれつき英語を話す外国人)に自然のスピードで読んでもらったものを録音し、それを聴いて、まねながら音読することで英語が身に付くという説。これを国弘氏は「只管(しかん)朗読」と名付けている。
これは、曹洞宗の祖道元が「禅の悟りは只管打座(ただひたすら座禅すること)にあり」と語ったことから作った造語である。彼はこう説明している。普通の英語学習法は、会話のパターン(型)を暗記すること、例えば、買い物、道を尋ねるなどの会話の型である。この記憶法は、その型に実際の場面がそっくり合えば有効だが、外れる展開になると(その方が多いが)対応できなくなってしまう。言葉が出てこないのである。
僕がリン嬢と話して、急に英語が出てこなくなり、うろたえ窮してしまったのもまさにこのことであった。普通、僕らは母国語(日本語)を話していて、突然質問や会話の内容が飛び、変わっても平気でそれに対応できる。
実は、会話しているときの言葉は、潜在意識の記憶層という脳の中の大きな袋から無限に、また自然に湧き出してくる。しかし、パターンを覚えた記憶は、小さな記憶の袋に小分けで収蔵されているようなもので、急に話題が変わった場合、次の小袋を探しているうちに、相手の話はどんどん進んでいってしまい、支離滅裂になってしまうのである。
考えないで覚えようとしないで、ただ朗読するとき、人は声を出す。その音は同時に、その人の耳に入る。これが潜在意識の袋にたまっていくのである。なぜ中2のリーダーがよいのか。国弘氏の説明では、中2のリーダーには会話に必要な基本的な語彙(ごい)は十分あり、文法の基本形もほとんど入っているし、読むだけで分かる文だからという。
僕は早速この方法を実行に移した。僕には20歳下の妹がいる。ちょうど中3になり、いらなくなった中2のリーダーをもらい、国弘氏の指定のごとく朝15分、寝る前15分朗読することにした。
ちょうどその頃、教会の信徒仲間のKさんが、中学校の教諭であったが、急に海外出張を命じられ、5年間ニューヨークに派遣されることになった。正直僕は、彼がとてもうらやましかった。自分の床屋という職業が籠の中の鳥、井伏鱒二の小説『山椒魚』のように思ったりした。
けんかが嫌いで意気地のない僕だけど、変にひそかな競争心を燃やすところがある。Kさんはニューヨークに5年もいれば本場の英語をモノにして、さぞかし流ちょうになって戻って来るに違いない。そうだ、彼と競争してみようと心に決めた。
彼はニューヨークで、僕は平塚で、このハンディは巨大であった。少しでもこのハンディを埋めるには、どのようにすべきか。彼はネイティブの英語の洪水の中で暮らすのだ。僕は、少しでも多くの英語のシャワーを浴びようと思い、次のことをすることにした。
(1)テレビやラジオの英語番組をできるだけ聴く。NHKのラジオ英会話、教育テレビの英語番組、中級、上級のプログラム、これらは店を閉めてからでないと聴けない。
(2)昼間、床屋業をしながら耳を慣らす方法を考えた。関東には、関西にはない英語学習の恩典がある。米軍兵士向け放送のFEN(現在のAFN)である。たいがいは僕の趣味に合わない音楽番組がほとんどだが、1時間に5分必ず英語ニュースの時間があり、時にはスピーチやトークの番組もある。野球の放送なども耳を慣らすのによい。
録音した英語を小型レコーダーで聴く。来客があり、仕事中でもイヤホンを使い、小型ラジオやレコーダーをポケットに忍ばせて聴いていた。ある時、不審に思われたお客様が「マスターは耳が遠いの?」と聞かれた。まさか、英語を聴いていますとは言いづらく、あいまいに「ええ、まあ、少し」などと答え、自らを難聴者にした。
こんな僕の姿を小学生の息子がシビアに観察していて、学校の図画に描いてしまった。ある日、父兄のクラス参観に行ったとき、この絵が教室に掲げてあった。櫛(くし)と鋏(はさみ)を持って仕事をしている僕には、耳にイヤホンが付いていて、その線がポケットにのびている。実写的でドキッとした。
(3)そして、朝晩15分の只管朗読。
(4)実践活動として、毎日曜日夜の小田原クリスチャンセンター(リン嬢はそこから来ていた)での英語のバイブルクラスに出席し、米国宣教師や米国人青年たちとの英語での質疑応答。
(5)たまの休日には、鎌倉に出掛けて行き、外国人観光客に英語で話し掛ける「野戦」にも挑戦した。
そんなことを数カ月続けたある日、例のリン嬢と会話していると、彼女の英語に自然と応えている自分を発見した。会話内容が変更されても、意識せず思わぬ英語が瞬時に口から出てきていた。国弘方式の実験は、僕の中で成功が証明されたのである。
会話というものは、グレードが段々と上がってくるものである。日常会話からリン嬢の質問は「日本の文化について」「天皇とは何ぞや?」「仏教と神道の違いを説明して?」などなどエスカレートしていった。僕はまたもやお手上げになった。
日本語だってそうそう説明できるものではなかった。その時僕は、英語で答えるには、10倍の日本語の知識の蓄積がなければダメだと思った。答えられるのは、海面に出た氷山の一角のみ、膨大な海面下の氷塊に当たる知識が必要になる。
僕は英語を学び出して、その派生効果だろうか、語学以外にも、宗教、哲学、音楽、自然科学、政治、芸術など、あらゆる分野について貪欲に学ばねばならないことに気付いた。それで英語の他に夜11時からのNHK教育テレビの市民大学講座を聴講し出した。
知識が増すと好奇心が喚起され、いろいろな分野について芋づる式に知識のネットワークは広がっていく。英文を読む方もチャレンジした。「ニューズウィーク」や英字新聞は量が多く手に負えないので、月刊の「リーダーズ・ダイジェスト」を購読した。1カ月で1冊読み終えるのは、僕には適量だった。これにより、僕なりに読解力を養うことができた。
今でも只管朗読は続けている。「リーダーズ・ダイジェスト選書」から好きなところを毎日音読している。その時間は無心になれ、心のリラクゼーションにもなり、英語を忘れる速度を遅くさせてくれていると思う。
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