「私たちの教会へようこそ」。これは、クリスチャンのお決まりのフレーズであり、確かにどの集会や礼拝においても、そうでなければならない。しかし、特に今日、人々に教会に来てもらうことはちょっと大変である。
この言葉の意味を真剣に考えるなら、実際に行うのは簡単なことではないことが分かる。
英語で「歓迎する」という意味の「welcome」は、古英語では「wilcuma(ウィルクマ)」であり、来るのに喜ばしい訪問者(ゲスト)を意味する。元の意味は、招く人(ホスト)の態度ではなく、招かれる人(ゲスト)の資質を表していた。
感じの良いゲストである「wilcuma」は、ある種の良い地位にある人であるため、ホストに名誉を与える。彼らは立ち居振る舞いを知っている。彼らは興味や生い立ちなどを共有してくれるので、話をしやすい。彼らはすぐに打ち解け、周りの人々を幸せにするため、彼らの訪問は楽しいものとなる。
では実際、訪問して来る人があまり心地良くないような人である場合はどうなるだろうか? それは教会の「歓迎」が試される時だ。「歓迎」という言葉が、その教会でどのような意味を持っているかが分かる時なのである。
例えば、大人向けの学び会やグループに、手に負えない小さな子どもを連れた家族が毎回参加すれば、どうなるだろうか?
同棲しているが結婚していないという、聖書的には非標準的なカップルがやって来たらどうするか?
ゲイの人が来たらどうするだろうか?
最初は教会に対して好意的な態度の人が、突然、口論を起こし失礼なことばかりするようになったらどうだろうか?
また、とても不潔な人が来た場合はどうだろうか?
自由な見解を持つ人が、保守的な集会に来た場合は? またその逆ではどうなるだろうか?
世代や人種、階級などがまったく違えばどうなるだろうか?
説教の賜物がある女性が、女性は奉仕できないという伝統や理念のある教会に加われば、この人は女性であるために説教することができないのだろうか?
正直なところ、「どなたでも歓迎します」という言葉には、通常「彼らが私たちのような者であれば」という暗黙の了解がある。ゲストが「wilcuma」、つまり「来る人が(私たちにとって)喜ばしい人」なら、私たちは安心なのだ。
しかし、イエスは言われた。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している」(ルカ6:32)。イエスは、敵を愛し、彼らを大切にするようにと語るのだ。
喜ばしくない訪問者は私たちの敵ではない。しかし、彼らがそうであるかのように私たちの方が振る舞うことは簡単である。私たちがそうするとき、彼らは隅に追いやられ、決して教会に居場所を見つけることはないだろう。彼らの声は聞かれず、遅かれ早かれ、彼らは教会で話すことをやめるだろう。やがて、イエスが弟子たちに言われたように、足の埃(ほこり)を払い落として、どこか他の所へ行ってしまうかもしれない(マタイ10:14)。
「歓迎」することは難しい。これには、自己吟味と自己否定を要する。これは私たちが以前と同じままではいられないということを意味する。これは霊的訓練である。そしてこれは、私たちに危険を冒すことや攻撃されることを恐れず、変化するようにと呼び掛けるものである。これは、見知らぬ人の声の中にイエスの御声を聞いて、パンを割き、イエスの存在を認めることを意味しているのだ。
「私たちの教会へようこそ」は単なる礼儀的な言葉ではない。それは、大変な努力を要する弟子訓練への呼び掛けである。なぜなら、最終的には「私たちの」教会ではないのだ。教会はキリストのものであり、キリストは徴税人や罪人、そしてあなたと私と一緒に食事を共にしたのである。
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マーク・ウッズ(Mark Woods)
バプテスト派牧師。ジャーナリスト。英ブリストル大学、英ブリストル・バプテスト大学卒業。2つの教会で牧会し、英国バプテスト連盟のニュースサイト「バプテスト・タイムズ」で7年間編集を担当。その後、英国のメソジスト系週刊紙「メソジスト・レコーダー」で編集顧問を務め、現在、英国クリスチャントゥデイ編集幹事。