人々はさまざまな理由で「教会」を去る。それは、単に地域の教会を去るという意味ではない。「教会」自体を去るという意味だ。
ある教会から、他の教会へと移る人がいる。それは基本的に問題ない。理由はさまざまであるが、時にただ教会外のことで忙しいということがあるだろう。時には牧師や教会員につまずくこともある。時には非常に多くの奉仕に疲れてしまった、ということもあるだろう。
これらのことは、あまり議論するには及ばないことだが、部分的に言えばこれらの問題は、少なくとも原理的には解決できる。では一体、信じること自体をやめてしまった人たちについてはどうしたらよいのだろうか?
最近のピュー研究所の調査によると、子どもの頃に信仰を持つことを拒否した人のほぼ半数が、ただ単にもう信じていなかったからと回答した。ある回答者は、「私は今、科学者で、奇跡を信じていません」と言った。また他の回答者たちは、「常識」「論理」また「証拠の欠如」を挙げ、ただ単に神を信じていなかったからだと述べた。
こうした人々を扱うのは、非常に大変だ。彼らはただ単に、私たちクリスチャン(罪人の集まりであり、多くの人が抜け出したいと思った時期が少なからずあるのではないだろうか)を拒否しているのではなく、われわれがその名によって「教会」をしている、すなわち神を最初の段階から拒否してしまっているのだ。
私たちクリスチャンが何かやったり言ったりしたことが原因で、そういうこと(神を拒否すること)が起こることもしばしばある。しかし、私たちは自分自身に問うべきだ。「人々が『教会』を離れるのは、当たり前の人間の罪深さ故か、それとも自分たちが、神について十分に説得力のない提示をしてきたからか」。ではここで、神についてどのように話したらよいかということについて、今日の「教会」への5つのチャレンジ(課題)を見ていこう。
1. 私たちの神は、科学的に信頼できるお方か?
この問いは、「神の存在を証明することができるか?」という問いと同じではない。神が存在するという証明はできない。しかし、自然を見れば、その中に創造主が確かに存在するというヒントやしるしは見て感じることができる。しかし、一般の人にとって、信ぴょう性があるかというのは、私たちクリスチャンが説く神が、地球の年齢や生命の進化のようなものについての科学者の知見と矛盾してはならないことを意味する。もし、自分の周りの皆が、これらの問題について同じ考えであるキリスト教の環境下にある場合は簡単だ。しかし、遅かれ早かれ、皆、聖書による、地球はできてからまだ数千年しかたっていないという考えより、数十億年たっていると考えるのが当たり前の世界に出て行くのだ。もし神への信仰が、創世記の特定の解釈に縛られている場合、その信仰は揺るがされてしまうことになるだろう。
2. 実生活においても神は真実か?
聖書の約束によって裏付けられていない信仰に対する主張には、非常に、十分に注意しなければならない。もし教会が、十分な信仰を持っているなら、神はどんな病人をも癒やしてくれると主張するなら、遅かれ早かれ、現実に直面してショックを受けるだろう。もしある教会がこのように間違っていれば、恐らくその教会は他の全てについても間違っているだろう。またある教会は、神は信仰者が金持ちになることを願っていると教えている。すると教会に行く人の中には、なぜ私はいつまでたっても生活が貧しいままなのかと疑問を持つ人がいる。またある教会は、カリスマ的な経験や霊的賜物に重きを置いている。だが、ある人々にはこのような礼拝がしっくりこない人もいるのだ。これができないからといって、その人がクリスチャンとして何か欠けているということではない。これはただ、皆人によって神への応答が異なっているということなのだ。しかし、もしある一定の経験がないと真のクリスチャンとしてダメだと言うなら、信仰に傷が付き、その信仰は死に至ることもある。
3. 神は私たちに驚きを与えられるか?
命題真実に重きを置いたキリスト教のらせん構造がある。これは、全ての「教会」の伝統に及び、福音派プロテスタントから、ローマ・カトリック、正教会に至るまでである。あなたが何を信じているかが極めて重要だ。信仰が学習運動となるという点では、私たちは信仰についてより多くの知識を蓄積していっていることになる。
教義は重要だが、教義自体は実を結ばない。キリスト教の黎明(れいめい)期では、信仰は単にイエス・キリストを信じることであり、そして十字架の道に従うことを約束するものであった。現在は(少なくとも欧米では)、「教会」が聖書の文面に縛られた文化のようになってしまい、私たちは教義上の争いや、イエスをほとんど覚えない教会政治などでこんがらがってしまう。しかし、私たちの信仰の中心は、自分は神に愛されているという、深い驚きと感謝である。もし私たちがそれを伝えることができない場合、私たちはもはや信じる人々を信仰深く保つことはできない。
4. 神は私たちの生活をより豊かにするのか?
アイザック・ウォッツ(1674〜1748)は、恐らく最初の偉大な英語の賛美歌作家であり、「宗教は、私たちの喜びを少なくするためのものではない」と書いている。教父エイレナイオス(130頃〜202)は、「神の栄光とは、完全に生かされている人間だ」と書いた。仮に教会が、私たちの視野を広げるよりも、狭める場所になってしまい、神が意図された、生き生きとした人生を生きている私たちをやめることになるなら、人々が教会に残り続けるのはより難しくなり、信じることも難しくなる。教会は、音楽、芸術、スポーツ、自然の中での喜びを奨励する場所でなければならない。別の賛美歌の作家が言ったように、「私たちの周りにある全ての良い贈り物は天から来る」のだ。
5. 神は私たちを裁くか?
これまでに述べてきた全てが、何となく「クリスチャン化」された自助的な哲学であったかもしれない。しかし、キリスト教を他のものと区別するある1つのことに、神が私たちを裁くということがある。神は、ただ私たちが良い気持ちになることだけを望んでいるのではなく、神は私たちに良い子どもであってほしい、そして良いことをしてほしいと願っているのである。私たちは神の基準に満たないときに、恥を感じるものだ。私たちは悔い改め、そして次はもっと良くなっていくことができる。
もし私たちが、人々が「教会」から去っていく理由について話す場合、これは両刃の剣となり得る。私たちは皆、誰かから裁かれていると感じるのは好きではない。もし誰かから裁かれるなら、去る方が簡単だ。しかし、罪を認識し、赦(ゆる)しを求めることは、福音に不可欠である。
教会が恵みと赦しなしに裁きを説くならば、それは何も意味がない。それは霊的に死んだも同然だ。
しかし、教会が悔い改めなしの赦しを説いている場合、これもまたそこには何の意味もない。それは霊的に停滞しており、多くを求めず、また面白みもない。私たちが何なのかと、私たちがどうあるべきかの緊張状態の中で、神との関係は形成されていく。
「教会」から離れて行ってしまうことを自ら望んでいる人たちを、私たちは止めることはできない。しかし、彼らが自分から離れて行きたいとはあまり思わないような場所は、教会の中でつくることができるのだ。
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マーク・ウッズ(Mark Woods)
バプテスト派牧師。ジャーナリスト。英ブリストル大学、英ブリストル・バプテスト大学卒業。2つの教会で牧会し、英国バプテスト連盟のニュースサイト「バプテスト・タイムズ」で7年間編集を担当。その後、英国のメソジスト系週刊紙「メソジスト・レコーダー」で編集顧問を務め、現在、英国クリスチャントゥデイ編集幹事。