聖書には、素晴らしい物語もあれば悲しい物語もある。時には非常に恐ろしい描写がなされており、読者はそのような物語にどのような意味があるのかと戸惑ってしまう。それらは血生臭く残忍で、あまりにも衝撃的であるため、説教者からも避けられてしまう。そういった話をどう説明したら良いか分からないのだ。
そういった話の1つが、士師記19章にある。これはイスラエルに王が立てられる以前の物語である(王の擁立自体はこのテーマとは無関係である)。あるレビ人と彼の側女(そばめ)が、ベニヤミン族の領地にあるギブアという町で一夜を過ごす。2人は誰かが家に泊めてくれるのを、町の広場で待っていた。そしてついに、1人の老人が迎え入れてくれた。しかし、「町のならず者」が老人の家を取り囲み、レビ人を外に出せと要求してくる。レビ人と性交渉するためである。老人は代わりに自分の処女の娘と、レビ人の側女を差し出す提案をする。その後、レビ人は自分の側女を外に出し、彼女は繰り返しレイプされる。側女は何とか家にたどり付くが家の中には入れてもらえず、玄関で死ぬことになる。
レビ人は側女の体を12の部位に切り分け、一種の鬨(とき)の声として、イスラエルの各地域に送る。イスラエルの全ての民がベニヤミン族に襲い掛かり、あわや部族を滅ぼしかける。その最中、ギレアドのヤベシュという町は戦う者を1人も送ってこなかった。そのためギルアドのヤベシュの住民は、400人の娘たちを除いて全員殺される。400人の娘たちは、生き残ったベニヤミン族の男たちの妻として彼らに与えられた。それでも女性の人数が不十分だったため、ベニヤミン族には、多くの女性を強制的に連れ去る許可が与えられる。
このように、実に暗い話である。
レビ人は側女のことを全く気に掛けていない。彼女には何の権利もなく、レビ人の目に何の価値もない。彼は臆病で無情だ。ギブアの老人は親切だったが、自分の娘を暴徒に進んで提供しようとした。恐ろしい性暴力も行われている。また、婦女子の殺害を含む大規模な流血も行われている。この物語について、一体どんなことが言えるだろうか。少なくとも3つのことが言える。
第1に、これは現実である。この世のありのままの描写であり、そこには特に、日常的な性暴力が含まれている。私たちはそのようなものを目にし続けることを好まず、テレビの放送であれば電源を切ってしまうかもしれない。しかし、私たちがキリストの忠実な弟子でありたいと願うなら、この世のありさまを無視してはならない。このような物語が、あえて聖書に描かれているからだ。
第2に、この話は(倫理的に)間違っている。もし物語が19章で終わりだとするなら、恐ろしいことである。悲惨なことが行われたにもかかわらず、誰も罰を受けていない。しかし実際は、国民は悪に対して反旗を翻している。後半で起きている戦いは、現代人にとっては衝撃的だとしても、道徳観念によって引き起こされたものだ。悪が放置されてはならないのである。罪は償われなければならない。神は不正を憎むからだ。
第3に、法律が存在していなければならない。士師記では、あるフレーズが繰り返されている。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」というものだ。正義がなかったからこそ、ギブアの人々とレビ人はあのような行為に走った。正義をもたらしたのは、サウルとダビデだったのだ。
しかし法の必要性は、人間の本質について基本的なことを教えている。人間には善を行う能力はあるが、人間性そのものは善ではないということだ。人間の本質は堕落しており、悪に向かう傾向がある。一言で言うと、罰を受けずに済むと思う場合、人はそれをやってしまうものなのだ。人間社会に、強力な法律や道徳規範が必要なゆえんがここにある。好き勝手にしておくなら、人は無秩序と悪に傾いてゆくのである。とどのつまり、私たちには贖(あがな)い主が必要なのだ。
先に述べたような物語がなければ、聖書はもっとましになると言う人がいる。しかしこういった「恐怖の記述」こそ、人間についても神についても、より深く教えてくれるものなのである。
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マーク・ウッズ(Mark Woods)
バプテスト派牧師。ジャーナリスト。英ブリストル大学、英ブリストル・バプテスト大学卒業。2つの教会で牧会し、英国バプテスト連盟のニュースサイト「バプテスト・タイムズ」で7年間編集を担当。その後、英国のメソジスト系週刊紙「メソジスト・レコーダー」で編集顧問を務め、現在、英国クリスチャントゥデイ編集幹事。