聖霊のバプテスマを経験した翌日、大阪救霊会館に伝道に出かけた。神学生全員が、個人的に新しい方々と話をしていた。ふと気づくと、目の前に一人ポツンと取り残された男がいた。私が知っている聖書のことばは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)だけだったが、思い切って近づき、話しかけてみた。相手の目を見る勇気もなく、ボソボソと説明し、言うことがなくなったので、顔を上げてみると、男は泣いていた。あわてて「イエス・キリストを信じませんか」と言った。何と彼は、イエス・キリストを受け入れる祈りをともにしてくれた。
それから三ヵ月後、千葉の刑務所から一通の手紙が来た。あの夜、イエス・キリストを信じますと告白した男からだった。彼は神奈川で板前をしていた時、ちょっとした言い争いがもとで、刺し身包丁で相手を殺して、大阪へ逃げてきた殺人者だったのだ。
イエス・キリストの十字架の救いを信じて、神の愛の赦しを受け入れ、自首した旨がしたためてあった。自分が経験したことがなければ人の気持ちが分からないと、今まで散々言われていたが、人を殺したことがなくても、殺人者を救いに導くことができたのだ。それは、自分の経験や知識ではなく、神のことば、福音が人を救う力であることの、新しい発見だった。種子島で電報配達をしていた時のことを思い出し、良い知らせを伝える足として、今こそ福音に仕えるのだという、新しい献身のスタートとなった。「神のことばは生きていて力がある」(ヘブル4:12)と聖書は証言しているが、まさしくそのとおりである。イエス・キリストのことばこそ、天地が過ぎ行くことがあっても、変わることのないいのちのことばなのだ。
聖書が神のことばであることを、知識的に学んだだけでなく、必死で年間四回通読する中で、聖書のことばを語る時に人々が救われるのを体験できたのは、大きな喜びであり祝福であった。そして神が召してくださったのは、ただ良い知らせを伝えるためであり、それこそが自分に与えられた使命であることが分かり、それが伝道生涯の秘訣となった。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。