第二次世界大戦中、日本海軍連合艦隊を司令長官として率いた山本五十六(いそろく)。圧倒的な国力の差から米軍との交戦を無謀と考え、ドイツとイタリアとの三国間で結ばれた「三国同盟」にも強く反対した。誰よりも戦争を回避しようとしていた山本は、皮肉にも真珠湾攻撃を指揮することとなり、敵艦4隻を沈める戦果を上げている。
山本の生涯は、阿川弘之や半藤一利などによる伝記、また「聯合艦隊司令長官 山本五十六」(2011年公開)などの映画によっても描かれ、その名を知っている人も多いだろう。ただ、信仰を持つまでには至らなかったものの、キリスト教への理解が深く、聖書に親しんでいたことを知る人は少ない。
鈴木範久著『聖書を読んだ30人――夏目漱石から山本五十六まで』(日本聖書協会)によると、山本は少年時代を過ごした新潟で、私立長岡学校の英語教師をしていたアメリカン・ボードの宣教師ニューウェルの日曜学校に通っていた。また、兄の高野丈三は、長岡教会で教会生活を送った後、献身して築地福音教会の牧師になっている。その後、高野が開拓した東金教会(千葉県東金市、日本基督教団)には、山本が訪ねてきたこともあったという。
山本は、広島県江田島の海軍兵学校には聖書を携えて入学し、以後も英文の欽定訳新約聖書を携行していた。現在、この英文聖書は山本の遺品として、長岡市にある「山本五十六記念館」に収蔵されている。
一方、連合艦隊司令長官であった山本は、当時の日本において、軍国少年たちの憧れでもあった。
五十六揮毫による書を退役した木製プロペラに刻むなどして、日本軍に多額の寄付をした家や地域に送っていたという。そうしたプロペラが全国各地で発見され、地域の人々によって大切に保存されている。
千葉県市原市にある神代(かじろ)神社にもこのプロペラがある。全容が明らかになったのは今から約5年前。それまで、社殿の天井にくくり付けてあったプロペラについて、地元集落では「五十六のプロペラがある」との認識はあったものの、誰が何の目的で同神社に運んできたのかは明らかになっていなかった。
そこで地域の人々が、約30キログラムもあるプロペラを天井から下して確認したところ、プロペラの右側には確かに「山本五十六書」として「龍蛟躍四溟(りゅうこうしめいにおどる)」と彫ってあった。地元有志がまとめた資料によると、これは「風雲は地上を覆うが、天子(龍蛟)の徳は地上の外側に広がる海(四溟)をも覆うものである」という意味だという。「孔廟歌辞」の中にある「皇夏楽」の一節だ。日本軍の飛行機が世界の海と空を制すとの願いが込められているのだろうか。
同資料によると、プロペラは、神代神社に保管される前、海上(うなかみ)国民学校(現在の海上小学校)にあった。しかし、どのような経緯で神社に移ったのかは定かではない。
小さな農村だったこの集落には多くの疎開児童がいたというが、太平洋戦争終盤には米軍機が飛来し、子どもも含む数人の村民が命を落としている。そのような時代背景の中、終戦後、「GHQの占領下でプロペラを没収されるのではないか」、また「寄付をした村民は戦争協力者としてどんな不利益を被るか分からない」といった理由で神社に隠したのではないかといわれている。以降、70年近く手入れされることなく、神社の天井にぶら下がっていたのだ。
市原市五井会館で年に1度開かれる「原爆の絵展」(市原平和のつどい実行委員会主催)でこのプロペラが公開されている(今年は8月4~6日)。
かつて「靖国(やすくに)で会おう」を合言葉に、多くの若者が命を落とした戦争。聖書を読み、その教えを聞きながらも、彼らをけん引しなければならなかった山本五十六。その最期は、戦況が悪化した1943年4月18日。ラバウル島基地を出発した偵察機に山本は搭乗していたが、同機を狙い撃ちするかのように米軍機が襲撃し、撃ち落としたのだ。
死の間際、山本は何を思ったのだろうか。聖書の言葉、日曜学校で歌ったであろう賛美歌の一節を思い出し、平安のうちに旅立ったのだろうか。山本五十六ゆかりの聖書とプロペラに触れ、現在、平和が与えられているその恵みに感謝した。