『見えない涙』(亜紀書房)は、批評家・エッセイストとして活躍する若松英輔さんによる初めての詩集だ。東日本大震災以来、心に生まれた言葉を大切に綴(つづ)ってきた26編の詩が収められている。
若松さんは慶應義塾大学出身で、2007年、「越知保夫とその時代――求道の文学」により三田文学新人賞を受賞し、「三田文学」編集長と読売新聞読書委員を務めた。また16年には、『叡知の詩学――小林秀雄と井筒俊彦』で西脇順三郎学術賞を受賞。カトリック信徒であり、『イエス伝』(中央公論新社)や『内村鑑三をよむ』(岩波書店)など、キリスト教をテーマにした著作も精力的に発表している。
今回の詩集『見えない涙』について若松さんはこう語る。「この詩集は、日ごろ、あまり詩を読まない、という方にも読んでいただきたいと願いつつ、書きました。かつてわたくしもそうでしたが、詩はむしろ、日ごろ、詩から離れて生活している人々にこそ必要なのかもしれません。詩は、人の心に宿る、もう1つの祈りなのかもしれないとも思います」
本書のあとがきによると、若松さんはそれまで「興味や関心の赴くままに手にするだけで、詩を愛するということがなかった」(100ページ)が、東日本大震災や自身の身に起きた経験により、それが変わった。悲しみの極致にある人たちは泣く声を失い、涙さえ涸(か)れていることを知ったことで、若松さんにとって「詩は、あった方がよいものではなく、なくてはならないものになった」(同)という。
人が
何かを語るのは
伝えたいことがあるからではなく
伝えきれないことがあるからだ
(「風の電話」より)
言葉は伝達の手段。自分の思いを知ってもらいたくて、人は言葉を使う。しかし、「悲しみの底を生きている人はしばしば、声に出して哭(な)かず、涙を見せず暮らしている」(102ページ)ため、その人の発する言葉が思いのすべてというわけではない。ただ、そうした伝えきれない思いは、心の奥の叫びとなり、やがて美しい言葉となって姿を現す。本書に収められた詩も、悲しみの泉から湧き出た言葉であり、悲しみを知っている者こそ、その言葉に深く共鳴できるだろう。
私のなかに詩人がいる
内なる詩人がいる詩人は
私が話すと沈黙し
黙すと
静かに語り始める
(「詩人」より)
若松さんが詩を書き始めたのは、東日本大震災の後。当初は詩を発表することなど全く考えていなかったが、自身が主催する「読むと書く」という講座で、延べ数百もの参加者の詩を読むことを通してたましいの交わりを経験した結果、自身の中にいる詩人が目覚めさせられたという。「詩人は私たちがその存在を忘れているときでも、目には映らない文字で心のなかで詩を生み出している」(103ページ)
もっとお伝えしたいことはあるのです
でも
書く力が残っておりません
ヨハネが記しているのは本当ですイエスの行われたことは
ほかにもたくさんある
その一つ一つを書き記すなら
世界さえ その書物を収めきれはしないだろう
(「聖女の遺言」より)
先月あった第32回キリスト教文化講演会で若松さんは、「思いはほとんど言葉にならない。書ききれない中にこそ人生の真実がある」と語った。多くの人は、数限りない思いを心に持ちながら、それらを表す言葉を持たない。だからこそ、「詩人は、詩を書けない人の心を受け取り、それを言葉にして、その思いを伝える役割がある」という。「詩を書く者は、詩を創りだす者ではない。どこからかやってきた詩のかたちをしたおもいを引き受け、それを定められた場所に運ぶのが役割なのである」(105ページ)。それは死者の言葉であっても同様だ。若松さんは、悲しみの思いを訪ね歩く旅人のようだ。
心に
悲しみの花を咲かせよその 青き花は
いつの日か
耐え難い苦しみを生きる
お前自身をも救うだろう
(「青い花」より)
若松さんの詩は、祈りを共にするように、悲しみを負った人とその悲しみを分かち合い、深く語り合う。そして、詩の言葉に触れるたびに、次の神の約束が真実のものとなって胸に迫り、温かい思いに満たされる。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21:3~4)
若松英輔 詩集『見えない涙』
2017年5月26日初版
四六判変型 112ページ
亜紀書房
定価1800円(税別)