批評家・エッセイストでカトリック信徒の若松英輔さんによる第32回キリスト教文化講演会(教文館主催)が27日、教文館ウェンライトホール(東京都千代田区)で開催された。集まった約60人を前に、「詩を取り戻す」というテーマで語った。
『イエス伝』(中央公論新社)、『内村鑑三をよむ』(岩波書店)など、キリスト教をテーマにした著作も精力的に発表する若松さんは、今年4月に初めてとなる詩集『見えない涙』(亜紀書房)を刊行した。講演会の冒頭、若松さんは、「詩は詩人だけが書くものではない。『詩を取り戻す』というテーマには『詩人から詩を取り戻す』という意味が込められている」と明かした。
「人は、思っているより自分を知らない。でも、書くことによって自分が何を思っているかが分かる。特に、小説やエッセーと違って詩は『うまい・へた』の埒(らち)外に置かれている」と述べて、まずは詩を書いてみることを勧めた。
「自分の家に畑があれば、スーパーに行って野菜をわざわざ買う必要はないのと同様、言葉も自分の中で耕すことができるなら、他の作家の作品を買って読んでばかりいる必要はない。自分の中にあって自分を照らすものを、実際に書くことによって見つけてほしい」
この日は、現代作家から古典、聖書に至るまで何冊かをテキストに、そこに書かれている言葉と向き合った。最初に取り上げたのは須賀敦子『ユルスナールの靴』(河出文庫)に収められたマルグリット・ユルスナールの「ハドリアヌス帝の回想」。
「思いはほとんど言葉にならない」「書ききれない中にこそ人生の真実がある」というユルスナールの文章を通して、「この世界では、言葉で伝えきれないことがたくさんある」と若松さんは言う。そして、「イエスのなさったこと・・・その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハネ21:25)という聖書の言葉を引用して、「書かれたその奥にさらなる真実が隠されており、それは心が感じるものである」と語った。
若松さんは、「文字は読むものだが、意味は感じるものだ」と話す。宮澤賢治の『心象スケッチ 春と修羅』中の「白い鳥」と内村鑑三の『基督信徒のなぐさめ』第1章「愛するものの失せし時」には、愛する者を失った者の悲しみが書かれているが、その言葉は理解できても、それがどういうことなのか、著者の体験を自分に置き換えることができない人には分からないという。「詩を読んだ時に分からないと思うのは、難しいからではなく、そのことを考えたことがないからだ」
また、『古今和歌集』に収められている「挽歌」は、人間の声にならない呻(うめ)きから生まれたもので、「言葉になり得ないものを言葉にする」という詩の醍醐味(だいごみ)を味わうことができるという。
「当時は、別の人が当事者になり代わって詠むこともあった。そのように、和歌を詠めない人にも、和歌になりうる心は持っている。それゆえ、詩人は、詩を書けない人の心を受け取り、それを言葉にして、その思いを伝える役割がある」
その例として「20世紀最大の言葉の詩人」と若松さんが評するリルケの詩を取り上げた。まず『ドゥイノの悲歌』について、「言葉が姿を変え、生者と死者の間をさまよっている。リルケの詩は、生者だけでなく、亡くなった人の心にさえ届く」と明言する。また、『若き詩人への手紙』については、「物事の本質は言葉を超えたところにあり、人の口から出た言葉は、その人の思いの断片にすぎない。人が語ろうとするのは、伝えたい何かがあるからではなく、言葉では伝えきれないことがあるのを感じているからだ」と語った。
自身が敬愛する原民喜の詩にも言及し、「詩は何を書くかではなく、誰に向かって書くかによって、おのずと書きたいことが決まってくる」と伝え、『中原中也詩集』の「秋の一日」については次のように述べた。「人は毎瞬変化し、言葉を紡ぐことで毎日の魂に出会っている。他の人にどう見えても、自分にとってかけがえのないものを探して書けばいい。評価など関係ない。人は、自分の心の叫びを自分で書くことのできる内なる力を持っている」
最後に、イエスが死ぬ間際に発した言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)について次のように語って講演を締めくくった。「イエスが十字架上でこの言葉を言ってくれたおかげで、私たちも神への叫びを言えるようになった。神は、呪いの言葉をも愛に変えることができる方だ」
講演を聞いた30代女性は、「大いに刺激を受けた。詩は自分とは遠い世界と思っていたが、自分の心と向き合い、その中から出てくる言葉で、自分でも詩を書いてみたいと思った」と感想を語った。