何年も前、上野の美術館で、私は1つの絵画の前に立った。その絵には、大航海時代のヨーロッパの港が描かれていた。
人々の生き生きとした表情、港の喧騒、荷揚げの男の屈強な体。エネルギーが絵からにじみ出ていた。
まるで港の空気や匂い、音、そして人々の命の鼓動が、絵に焼き付いているようだった。
この絵画に出会った当時、私は仕事の展望が見いだせず、悶々(もんもん)としていた。しかし、何百年前の人々の生活に思いをはせていると、自分の悩みがちっぽけに見えてきた。
絵画に限らず、「気」のこもった作品に触れるとき、私たちは自分の中に眠っていたものが引き出される経験をする。
音楽を聞いていると、聞いた当時の気持ちを思い出す。
料理を味わうと、過去に同じ料理を作ってくれた人の顔が浮かんでくる。
映画を見ていると、忘れていた過去の記憶が思い出される。
音楽、料理、映画といった「言葉」が媒介となって、私たちの中の「何か」が引き出される。
批評家であり『イエス伝』の著者である若松英輔は、以下のように言う。
言葉とは、コトバの一つの姿にすぎない。(中略)画家にとっては色と線が、音楽家には旋律が、彫刻家には形が、宗教者には沈黙がもっとも雄弁なコトバになる。苦しむ友人のそばで黙って寄り添う、こうした沈黙の行為もまたコトバである。
(若松英輔『悲しみの秘義』97ページ)
文字に限らず、絵画も音楽も彫刻も、言葉である。また「背中が語る」というように、沈黙や行動などの生き様も、言葉である。
日本には、言霊(ことだま)の思想がある。人がものを言うと、その言葉自体が、言葉の表現している内容を実現させるように働くという思想である。
言霊において、コトは「言」であり「事」なのだ。
聖書においても「言葉(ダーバール)」という単語は「出来事」をも意味する。
神(創造主)が「光あれ」と言葉を発したら、その通りの出来事が起きた。神は「言葉」によって、光と闇、水と水、陸と海を分け、この世界の秩序を創った。
新約聖書のヨハネによる福音書は「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」で始まる。
そして、「万物は言によって成った」という。
建物は、設計図という言葉によってデザインされる。私たちの体も、DNAという言葉によって作られている。スマホのアプリも、プログラムという言語によって動く。
あらゆるものが、言葉によって成り立っている。
そして、言葉には思いが詰まっている。私がかつて見た港町の絵画も、港で働く人たちの思い、画家の思いが、時空を超えて私に語り掛けてきた。
私たちは、知らず知らずのうちに、言葉に出会っている。毎日、言葉を食べている。言葉に包まれながら、私たちは生かされているのである。
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