軽井沢の隣町、浅間山の麓にある「麦の家」(長野県小諸市)。26年前、ギャラリーとしてオープンし、陶芸を中心に、工芸・芸術分野で活躍する作家のグループ展を5月と10月に開いている。また、懐石喫茶として16年間、土日限定で食べられる、地元の食材をふんだんに使ったメニューは評判だ。
オーナーを務める及川尚子(おいかわ・ひさこ)さんは、画文(絵手紙)や洋裁教室も運営し、陶芸だけでなく、薫製作りまでこなす多彩な才能の持ち主だ。19歳でクリスチャンとなり、人生の中でさまざまな試練を通ってきた。上田キリスト教会(基督聖協団)会員。
本紙のフェイスブックでも掲載している画文は、自宅のアトリエで制作している。「どうしても書きたくて・・・。とても平安なひとときですね」と謙遜するが、色鮮やかな筆づかいと心に染みるメッセージで多くの人に福音を伝えている。2008年に画文集第1集『麦の唄(うた)が聞こえる』を刊行し、その後、第2集、第3集と発行してきた。第4集もこの秋、発売予定だ。
ちょうど「2017春 第51回 ギャラリー麦の家展覧会 歩き続けて」が開催中で、各部屋には、陶器や洋裁、木版画、手作りアクセサリー等が展示され、訪れる人々はそれらを見ながら思い思いの時間を過ごしていた。当日は、オープンして3時間あまりだったが、すでに400人近い来場者があった。
臨時で設けられた駐車スペースには7、80台の車が置かれ、1階のカフェスペースは満席。「これはすべて神様にささげるためにやっています」と及川さんは楽しそうに語る。「私にとって出会いは、神様からいただいた財産です」
14年前、及川さんの姉が悪性リンパ腫を患い、治療のため、住んでいる松本市から、及川さんが看病できる佐久総合病院に入院した。及川さんが見舞いに通ううちに、隣のベッドで寝ている若い女性と親しくなった。彼女の名前は渡辺恵(めぐみ)さん。がんが全身に転移し、主治医から「危険な状態」と告げられていた。やがて、交流を通じて福音に触れた恵さんは、3カ月後にはイエス様を信じ、洗礼を受けた。
その直後、今度は恵さんの父親もがんで入院した。「神様はなぜこんなにつらいことをなさるの。悲しみと苦しさのあまり、7階の病室のベランダから飛び降りてしまいたい」。恵さんはそう言ったこともあったという。
恵さんの病状は進み、2カ月後の8月31日、大好きな家族が見守る中、「いつくしみふかき」(讃美歌312番)を何度もリクエストし、「神様にゆだねたよ」と言って、27年の地上の生涯を終え、神様のみもとに帰った。
その前夜、「靴を履かせて」と頼むので、リンパ腺への転移で足はパンパンに腫れ上がっていたが、靴を履かせ、家族が彼女の体を支えた時、恵さんはまるで赤ん坊を抱くように優しい顔でいとしむしぐさをしたという。「イエス様に抱きかかえられたい、そんな思いがあったのでは」と及川さんは言う。
及川さんは、「恵(めぐ)ちゃんに出会えてありがとう」という彼女への思いを画文に残している。恵さんを通じて、入院していた父親をはじめ、家族全員が後に洗礼を受けた。また、兄夫婦も昨年の春、クリスチャンになったという。「恵さんは、『一粒の麦は、地に落ちて・・・死ねば、多くの実を結ぶ』(ヨハネ12:24)の御言葉どおり、まさに一粒の麦になったと思う」と及川さんは語る。
ギャラリーの一番いい場所に、うれしそうにほほ笑む恵さんの絵が飾られていた。「この出会いは決して忘れることができない」と及川さん。
一方、及川さんの姉は、新薬による治療でがん細胞が消えた。8年間、何度も入退院を繰り返す大好きな姉に、及川さんは「一緒に生きてほしい。助かってほしい」と、献身的に付き添ってきた。「涙に音があると初めて知りました。それほど祈り続けました」
日本で初めて認可された新薬に最後は賭けてみようとする義兄(姉の夫)と、38キログラムしかない小さな体に抗がん剤は耐えられるかと心配する及川さんとは話がかみ合わず、「信仰で責任はとれるのか」とまで言われ、その後、大好きな姉と3年間会うことができないほどに関係がこじれてしまった。
「私がイエス様を何度も伝えたことで、義兄の反感を買ってしまったのかもしれません」と及川さんは言う。義兄はそれまで精力的にギャラリーの手伝いをしてくれていただけに、ショックも大きかったようだ。
及川さんは毎朝2時に起きて1時間、姉のため、義兄との関係回復のために祈り続けた。「神様を伝えることだけが大切だと思っていましたが、そうではなかったのです。黙って祈り続けることも大切なのですね」
姉夫婦との関係は、思いがけない出来事で回復することができた。北海道旅行からの帰途、飛行機故障のため、羽田空港から松本まで電車で帰ることになった。しかし、到着が夜中の12時を回るとのことで、松本駅から、車を駐めてある松本空港まで、どうやって行こうかと考えていたとき、「神様が『義兄に謝りなさい』と示してくださったのです」。しかし夫は、「あれだけ献身的に介護したのに」という思いもあったのか、反対したという。
及川さんはすぐに姉に電話を掛け、「松本駅まで迎えに来てくれないか」と頼むと、姉は快く引き受けてくれた。及川さんは松本駅に着くまでの車中、ドキドキして仕方なかったという。改札口には、3年ぶりに会う義兄が待っていて、「チャコちゃん(及川さんの愛称)、お帰り」と言って抱きしめてくれた。「神様はへりくだる心を教えてくださいました。本当にすんなりと再会でき、感謝でした」。そう言うと及川さんの目から涙がこぼれた。
及川さんはクリスチャンになって間もなく、19歳で夫と知り合い、結婚した。嫁入りした及川家は厳格な仏教徒で、クリスチャンという理由だけで冷遇されたという。「私はもともと『久子』という名前だったのですが、義母から『和尚さん』の『尚』にしなさいと言われ、改名させられたのです」
結婚の条件も、毎日、仏壇に供え物をすることだった。「息子が『あなた以外の人とは結婚しない』と言うから、仕方なく認めたようなもの」と言われ、本当につらかったという。「義母をどうしても好きになれませんでしたが、主が私をあわれんで、好きになれるようにしてくださいと祈り続けました」
しかしここでも、神様は関係の回復を起こされた。「義母が肺がんになって、医師から『いよいよかもしれない』と告げられ、1月に本人の希望で自宅に帰ることになったのです」。この頃には以前のようなわだかまりはなくなっていたが、複雑な胸中だったという。それでも献身的に介護を続けた。
「1月に連れ帰った時は医師から『あと2、3日の命』と告げられていましたが、義母は『桜が満開の頃までは生きたい』と言っていました」。3月末、及川さんが以前通っていた教会の牧師が突然、見舞いに訪れた。義母もよく知っていた牧師だったが、義母は体を起こすと、「先生、洗礼を受けさせてください」と頼んだという。及川さんたちは仰天したが、急いで支度をして洗礼が授けられた。そして、桜の咲く頃まで生きたいという望みどおり、4月19日の朝、満開の桜の中、天へと旅立っていった。
及川さんは言う。「私はただ主にあって生きたいです。神様と人に仕える人生でありたいですね。残された時間はそのためだけに使いたい」