人生の目的は何か。
人生に目的はない、人生でなすべきことなど何もない、という人がいます。そう考えることは結構ですが、その人には人生は無意味です。
ただ、行きががりで、生きているだけですから、何かがうまくゆかなくなったとき、面白くなくなったとき、「もう死んでやれ」と考えかねません。そんな人が日本には多くなりました。現在は、自殺者が年間2万2千人ほどですが、かつては年間3万人を超える年が10年以上も続いていました。
しかし、大部分の人は「これだ」と思うものを探して、それに熱中します。例えば、お金をもうけること、高い地位に就くこと、好きな人と結婚して楽しい家庭を築くこと、事業をして大きくすること、有名人になること、欲望を追求すること、人の役に立つことをすること、社会を改善すること、趣味に没頭すること、健康で仕事をすること、普通に子育て・孫育てをすることなどなどです。
しかし、これらはすべて、人生の途中の目的でしかないのです。人生全体の目的とはいえません。なぜなら、人はみな死んでいかなければならないし、死んだ後はそれを続けることができないからです。人生全体の目的というからには後に何かが残らなければなりませんが、それらはすべて死の時までで、死とともに消え、あるいは崩れてしまうからです。後々まで残る業績はほとんどの人に関係がありません。残るのは、せいぜい、墓と市町村役場の除籍簿の名前だけです。
このため、多くの人が自分の人生について自問し、そして、無意味感、むなしさ感にとらわれるのです。往々にして、人生の途中で求めていたものが得られないでそうなる人もいます。割り切りのいい人は、早くから「人生とはこんなものだ」と得心して、それ以上考えることがないようです。いずれにせよ、襲って来るむなしさに対し、ちょっとした趣味とか、スポーツとか、旅行とかの気晴らしなどの対症療法で臨むのが一般的です。
ある時、朝日新聞の「明るい悩み・相談室」の欄に、新潟県小千谷(おじや)市の16歳の高校生からの相談が載っていました。
「私はもう3年も悩んでいるのですが、人間は最後に死ぬのにどうして一生懸命生きるのですか。最後にご褒美をもらえるわけでもないのに、ゴールに着いて何かいいことがあるわけでもないのに、どうして努力したり、恋をしたり、苦しみ悩んだりするのですか。結局死んでしまうのに、生きること、その間にすることにどんな意味があるのでしょうか。友達や親に聞いても、誰も答えてくれません」
これは、人生についての根源的な問いです。ですが、ほとんどの人は的確な答えを持っていません。
五木寛之という著名な作家にして仏教徒である方は、わざわざ『人生の目的』という本を著し、その中で人生の目的をあれこれ考えてみた結果、「やっぱりそれはなかった」と書いています。万人にとっての生きる意味、人生の共通の目的、それはないのだ、と。
この問題は、いくら立派な人が考察しても分からない難問なのです。ところが、その難しい問題が簡単に解ける方法があるのです。
上のような、いろんな物が詰まった箱が部屋の真ん中にぽつんと置いてありました。「何のために置いてあるんだ?」、誰も分かりません。ところが、その脇に、「説明書」も置いてあり、使い方も書いてありました。読めば大体分かるのです。
この説明書は、このような物を用意した者が書いたのですが、人生についても、人間のいのちを造った方「神」が説明書を置いてくれているのです。それが聖書です。神はその聖書に、人間が知っておくべきことや人生の生き方、注意事項などを書いてくれているのです。
神は聖書の中で、人間が死んでそれで終わりではないこと、先ほどの質問者の言葉でいえば、ご褒美があることを教えています。すなわち、造り主である神を信じ、その教えを守って生きるなら、肉体のいのちの後、天国で永遠のいのちに生きると約束してくれています。
人のこの世の人生は、神の子とされて天国・永遠のいのちに行くのが目標で、そのために準備の人生を送ることが、この世の人生の目的であります。実に簡明なことです。
キリストの神を信じれば、子どもでも分かる解答です。ただし、人は身勝手で愚かな点もあり、失敗したりすることもあります。神の教えを守り切れないことがあります。そのような人間のために、神は、イエス・キリストの十字架による贖(あがな)い〔罪の赦(ゆる)し〕の道を用意してくれました。だから、人は、弱くても、失敗しても、十字架を信じる道により、容易に天国・永遠のいのちに行けるのです。
ですから、人はこの世の人生で、立派なことができなくても、何か失敗があっても、楽しいことがなくても、つらいことに満ちていても、天国・永遠のいのちに行き着きさえできれば、それは勝利の人生、成功の人生ということができます。そのために、この世の人生を「キリストを信じて」準備できれば、人生の目的を達したということができます。
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