人間が動物を管理・支配するというのは傲慢(ごうまん)な考えだ。
神は植物と動物をお造りになった後に、神のかたちに似たものとして人をお造りになりました。そして、彼らに「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」と仰せられました(創世記1:26)。神に似せられた人間に、神から与えられた仕事・役割の1つです。
人間が神に似せられた“かたち”とは、手や足といった”形”(figure)ではなく、神の“像”(image)、すなわち在り方に似ているということです。人間は動物にない精神性・道徳性・霊性を与えられていますから、他の動物より高い立場に置かれています。他の動物とは違い、論理的思考力、ことばによる正確なコミュニケーション、集団としての協力態勢を取り得ることによって、動物よりはるかに強力な立場になりました。
この能力により、動物を殺傷し、捕獲し、動物を飼育し、動物を研究し、動物を保護し、また鑑賞するようになりました。植物を伐採すると同じに、跡地に植林もしたり、栽培もするようになりました。そのような意味で支配し、治めています。
しかし、それはむやみやたらに殺傷したり、滅ぼしたり、蹂躙(じゅうりん)したりすることではありません。神から委ねられた意味を間違わないよう、適切に支配しなければならないのです。そういう意味で、決して人間中心の勝手気ままな考え方・仕方を肯定するものではありません。人は、神から委ねられた趣旨に従い、傲慢にならず、謙虚にその責任を果たすべきだ、というのが、聖書の考えです。
仏教が弘通(ぐずう)している日本でも、生活の利便性、豊かさを求めて、人間が動植物を乱獲し、自然を破壊し、動植物の生存環境を損ない、もって絶滅に追い込む例が多く発生してきました。すると、それらは、聖書に人間の動植物支配が書いてあるからとか、キリスト教文明だから起こったとかの問題ではありません。洋の東西を問わず、宗教の違いを問わず、近代世界はどこでも発生している問題なのです。
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